2016年9月19日の<俺> 鏡合わせ 中編
「は? はい!」
何してたんだっけ、俺。そう、モデルだ。言われたポーズのままじっとしてなくちゃいけなくて……。
「何度か呼んだんですが……大丈夫ですか? 身体、強張っていませんか?」
宇佐見さん、心配そうだ。スケッチブックを脇に置いて、今にも立ち上がろうとしている。
「いえ、大丈夫です。すみません、ぼーっとしてただけです……」
安心してもらおうと、元気に身体を屈伸させてみせると、ほっとしたように浮かせていた尻を落とした。
「身体に異常が無いならいいんですが、まさかのリアル立ち往生かと思いましたよ」
冗談ですけど、と宇佐見さんは言うけど、顔色が良くないから心配させてしまったのは確かなようだ。
「俺、そんなに反応無かったですか?」
「無かったですねぇ……」
俺に座るように指示し、別のテーブルに置いてある茶道具で紅茶を淹れながら、宇佐見さんは深く肯定する。
「そうだ、忘れていた。あなたはそのまま待っててください」
そう言って部屋から出た宇佐見さんは、色はクリーム色だけど、形は海苔巻きみたいなものが沢山乗った皿を持って戻ってきた。ラップに包まれて、大きなキャンディみたいだ。
「朝、妻が出掛ける前に作って行ってくれたんです。私が絵の仕事をする時は、普通のサンドイッチよりさらに手の汚れないラップサンドにしてくれるんですよ。本当は半分に斜め切りするときれいなんですが……まあ、いいでしょう」
そのまま齧りつきましょう、と宇佐見さんは言う。
「蒸し鶏とチーズとトマトと、海老とアボカド、それにサーモンにクリームチーズだったかな? 今日はお客に出すからと張り切ってくれたみたいです。さあ、どうぞ。味は保証しますよ」
さあ、と勧められる、透明なラップに包まれたロールサンド。どれに当たっても美味そうなんだけど、宇佐見さん、何か一所懸命食べさせようとしている必死さが……。ま、いいか。ひとつもらって齧ってみると、サーモン&クリームチーズ。
「美味しいですね、これ」
しみじみ味わって食べる。こんな高級品はなかなか……。十枚切りのパンはしっとり、中身のスモークド・サーモンは旨味があってほど良い塩加減、クリームチーズは濃厚なのにくどくなく、あっさりしてる。
素晴らしい味のハーモニーに、思わず顔がほころぶ。瞬く間に一本食べてしまった。うーん、まだまだいけるぞ。
「──ふう、食べられるなら安心だ」
吐息とともに洩らされたおかしな言葉に、次はどれを食べようかとロールの山を見つめていた俺は、きょとんと顔を上げていた。目が合うと、宇佐美さんは慌てている。
「え? あ。あなたに毒見させたとか、そういう意味じゃありませんよ。おかしなものも入ってないし」
そう言いながら、不審なことはないと証明するかのように、慣れた手つきでラップを剥き、中のロールサンドを口に入れていた。どうやら海老とアボカドのようだ。しばらくもぐもぐと口を動かしていた宇佐見さんは、その間に話すことを整理していたらしく、紅茶を飲み干してからこちらに向き直った。
「ちょっと心配になったんですよ。椅子に座ってもらってた時は、それなりに頭や肩が動いたり、足が揺れたりしてたのに、窓辺に立ってもらってからはぴくりともしなくなって……。最初は立ってるほうが楽なのかとも思ったんですが、斜めに見える顔にも本当に表情が無いし……」
プロのモデルさんならそれくらいのことが出来る人もいるけど、何でも屋さんはそうじゃないから、と宇佐見さんは言う。
「絵のモデルになるのは、今日が初めてとおっしゃってたでしょう。そういう人がそこまで彫像じみてしまうのは何か不自然だし、呼びかけてもなかなか反応しないし、ようやく返事してくれたかと思ったら、目が遠いし……これは何か食べさせて現実に戻ってもらわなければ、と思ったんですよ」
「現実に……?」
いきなり出てきたそんな言葉に、俺が首を傾げると、宇佐見さんは頷いた。
「心が遠くへ行ってしまった時は、食べるのが一番です。食べ物を咀嚼して胃の腑に収めれば、それが心を連れ戻してくれる……」
そういう宇佐見さんの目こそ、今は遠くを見ている。
「若い頃、一緒に絵の勉強をしていた友人が、描くことに熱中するあまり食べなくなってしまったんです……彼は遠くばかりを見つめるようになりました。そのうち、その遠くの美しい光景しか見えなくなってしまったようで……、現実に関心を向けなくなったんです。次第に食べなくなり、終いには眠っているか絵を描いているかになって……」
悔いるような、沈痛な眼差し。
「亡くなってしまったんですか……?」
思わずそう訊ねるとと、宇佐見さんは否定した。
「いいえ。そんな馬鹿なことさせませんでしたよ」
顔つきが険しくなった。──俺が怒らせたわけじゃないよな?
「当時、友人の父は海外にいて、家には友人とその母、姉しかいませんでした。友人は彼女たちが何を言っても聞かなかった。そこへ私が乗り込んで……最初は金平糖でした」
「は?」
何故にいきなり金平糖?
「友人の口に突っ込んでやったんです」
その時のことを思い出したのか、ふんっ、と宇佐見さんは鼻息を荒くした。




