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2008年1月18日の<俺>  一年で一番 寒い 日 16 終

芙蓉に言われるまま、煙草ホルダーを手に持って紫煙を燻らせたり(咳をしたら色々台無しになるので、煙を吸い込まないようもの凄く気を使った)、足を組んだりほどいたり、テーブルに肘をついたり、顎を引いたり上げたりあっち向いたりこっちに目線をやったり……。


いやあ、疲れた。煙草ホルダーの吸い口に赤いルージュの跡がつくのを見たらもっと疲れるから、見ないようにしてた。


店が終わって、今夜の催しは大成功だと、上機嫌大興奮の芙蓉を葵と一緒に何とか落ち着かせ、写真を撮っておきたいと騒ぐのを阻止した(カメラを向けたら即ズラ外す、と脅した)。芙蓉も、葵まで惜しがったが。


「幻の女はやがて消える。幻は幻だからいいんじゃないか」


そう言ったら、何とか納得してくれた。目に焼き付けておくことにするわ、って。消しとけ。消去! 削除!


「本当、残念だわ……」


芙蓉は悲しげに目を伏せた。……騙されないぞ! そのまま芙蓉は下から流し目をくれて、ホント、残念、と呟いた。まったく、もう。


「それはともかく、日付けも変わってるしお店の仮眠室に泊まっていかない? 今夜の<マレーネ・ディートリッヒ>が誰かを探ろうとするお客がいるかもしれないから、そうするのが一番だと思うの」


「ああ、そうだね。お客さんたちの熱狂ぶりは凄かったもの。その恐れはあるかもね」


これは下心じゃないのよ、と真剣な顔でそこまで言われたら、俺もすぐに店を出るのが怖くなる。平和な日常を捨てたくはない。


俺がメイクを落としてる間に、葵は夏樹のいる部屋へ帰って行った。一度戻った時、ぬいぐるみのはんぺんと一緒に寝かしつけてきたらしいけど、やっぱり心配だもんな。


渡されたメイク落としをほぼ一本使い切ってしまう勢いで、俺は顔に塗ったくられた色んな色を落とした。「慣れてないからやりにくいでしょう? 私がやってあげるわよ」と芙蓉は言ってくれたけど、とにかくもう、乱暴に! ガシガシと! 擦り取ってしまいたかったんだ。


それからしっかり顔を洗って、ようやくすっきりした。はー、顔が軽い! 快適だ……。ふへー、と息をついてる俺を、芙蓉が複雑な表情で見ていた。俺の着ていたドレスや靴、コートやショールの手入れを終えたらしい。


「──私もスタッフによく言われるけど、本当に惜しいわね。あの(・・)美女が消えてしまったわ。……自分が誰かの女装に対してこんなこと思うなんて、初めてよ」


物憂い表情で溜息をつく芙蓉に、俺は言った。


「それだけ君の技術が優れてるってことだろ。あの<マレーネ・ディートリッヒ>は君の作品だった。土台が俺だから言いたくはないけど、ある意味芸術じゃないか? 幻を本物に見せるなんて、誰にでも出来ることじゃないぞ」


「そうね……私にも自負はあるわよ。だけど……まあ、いいわ」


芙蓉はひとり頷いた。


「幻は幻。きれいなうちに消えてこそ、よね」


そうそう、その通り。だから早く忘れようぜ、俺の女装なんか。


「夏子がよく言ってたわ。きれいな幻だからこそ、潔く消えるんだって。消えるから、次の幻を追いたくなるんだって」


日頃の憂さを忘れて、一時の夢。なりたい自分は幻で、ここはそんな幻に逢える場所。きれいな女、可愛い女、そんな自分に逢える店。


「女がズボンを穿いたって、誰も気にしないじゃない? だけど、男がスカートを穿いて外に出たら、変態って言われて後ろ指さされるのよ。下手したら警察に捕まったりもするわ。ただ綺麗な服を着たいだけなのにね。ここはそんな男たちの避難場所よ。女でも、完全に男の格好をすれば奇異な目で見られる。だから彼女たちもこの店に来るのよ」


私だって、そのせいで父親に捨てられたんだし、と芙蓉は苦い笑みを見せた。


「夏子がこのお店を作ってくれてなかったら、私、行き場所が無かったわ。まだ十六の子供だったし、今頃どうなってたか。夏子に逢えて、私……」


──今日は本当にありがとう。あなたのお陰で少しは夏子に恩返しを出来た気がするの。夏子の見たかった女装の<マレーネ・ディートリッヒ>。幻の女を、お店の舞台に立たせることが出来たんだから──。


やけに素直にそう言って、芙蓉は俺を仮眠室に案内してくれたんだ。


慣れないことをした疲れのせいか、毛布に潜り込んで頭を枕につけた瞬間すこーんと眠りに落ちた俺は、いつもの時間に目が覚めて、眠い目を擦りながら店を後にしているところだった。──仮眠室が暖かかったから、廊下に出て寒さに震え上がったよ。非常口を出たらもっと寒かった……そこ閉めたらもう外から開けられないから、うっかりジャケットとマフラー忘れなくて良かった、ほんと。


──あの時の芙蓉、酔ってたのかな。


まだ明けきらない冬空の下、灰色の街を歩きながら、俺はそんなことをぼんやり考えていた。吐く息が白い。


いつもの芙蓉は、リゴレットの「女心の歌」のように移ろいやすい女の顔を、くるくると効果的に演じ分けてみせている。もういっそ女優のようだ。だから、あんな素の表情を見たことはなかった。素の言葉も。


それを引き出したのが俺の女装っていうのも……それにしても、いいのかな、夏子さん、ああいうので。……いいんだろうな。だって芙蓉渾身の作品なんだし。俺、ちゃんと自分の姿見てないけど、周りの反応が只事じゃなかったし……。あの熱狂が怖かったよ……。


はあ、もういいや。俺は単なる中の人だ。くま○ンの中の人がどんな人なのか誰も知らないように、今の俺を見たって誰もディートリッヒなんか思い出さないだろう。


ふう。


今回の報酬のアダプタは、仮眠室に置いてきた。


芙蓉は「あなたにならこれを譲っても、夏子だって許してくれるわ」って言ってたけど、何だかさ。もう使えなくても大切にしてたみたいだし、夏子さんの形見なんだし。──俺のパソコンなんてただ古いだけで、設定をしてくれた元妻だって元気に生きてるし。新しいの買いたくないのだって、ただ俺がケチなだけだし。


さて。


家に帰ってもうひと眠りしたら、智晴に電話しよう。んで、謝ろう。俺、態度悪かったし。それから、頼んでみよう。一緒に電気屋に行って、新しいパソコン選んで欲しいって。文句言いつつも、智晴は俺につきあってくれるだろう。




仮眠室の小さなテーブルの上に、アダプタと一緒にメモを置いてきたけど、芙蓉、気づいてくれるかな。


──幻の女はディーヴォ(夏子さん)のために




幻の女は幻のまま。

俺は俺のまま。

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□■□ 逃げる太陽シリーズ □■□
あっちの<俺>もこっちの<俺>も、<俺>はどこでも変わらない。
『俺は名無しの何でも屋! ~日常のちょっとしたご不便、お困りごとを地味に解決します~(旧題:何でも屋の<俺>の四季)』<俺>の平和な日常。長短いろいろ。
『古美術雑貨取扱店 慈恩堂奇譚』古道具屋、慈恩堂がらみの、ちょっと不思議なお話。
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