第21話 放逐の理由
「あの夜のあなたは、とてもご機嫌だったね」
自ら葵であると名乗った青年は、くすっと笑った。
「父と言い争っていたらいきなり飛び込んで来てさ。何事かと思ったよ」
俺は言葉に詰まった。
「悪い。全然覚えていないんだ……」
「そうみたいだね」
夏樹をソファに横たえてやりながら、葵は答えた。うさぎの絵のプリントされたケットをかけやっている。冷房のきいた部屋では当然だ。
「でも覚えてなくて良かったかも。すごく陰険で険悪な雰囲気だったから」
その言葉を聞いて、俺はぶるっとした。あの<笑い仮面>高山父と、その息子である目の前の青年が、俺という他人を挟んで陰険漫才。怖い。怖過ぎる。
にここにこに、にこにこにこ。
にっこり、にこにこ。にっこり、にこにこ。
そして飛び交う険悪な会話。酔っぱらった俺だけが何も分からずに、にへにへにへ。
お、覚えてなくて良かったかも。しかし、怖い親子ゲンカだ……。
「そんな状態なのに、何軒も梯子したのは何故なんだ? 帰ればいいじゃないか」
俺のもっともな問いに、葵はひょいと肩をすくめて見せた。
「父は俺から聞き出したいことがあったし、俺も確認したいことがあったからね。腹の探り合いしてたんだよ、互いに最低限の札しか見せないようにして」
「……高山氏が君に聞きたいことって、やっぱり君の兄さんのこと?」
俺は訊ねた。
「君の双子の兄さん、芙蓉くん。五年前に行方知れずになったと聞いてるけど、君、ひと月ほど前、<サンフィッシュ>っていう店で彼と会わなかったか?」
「会ったよ」
あっさりと葵は肯定した。
「本当に久しぶりに。偶然だったんだ」
偶然は結局必然、という言葉もあるけどね。葵はそう続けた。
「俺と芙蓉は一卵性双生児だって、知ってるよね」
頷く俺に、葵はさらに問いかける。
「どう思う? いつも一緒だった人間が突然いなくなるって。別に、魂の半身だとかそういうことは言わない。俺と芙蓉は別の人間だ。でも、生まれた時から、いや、母の胎内にいた時から一緒だったんだ。それなのに何も言わずにいきなり……」
葵は眠る夏樹の髪を撫でた。何度も、何度も、愛しそうに。
「その兄弟に会った。五年ぶりに。女の格好をしてたからびっくりしたけど、でもすぐに分かったんだ、芙蓉だって」
「芙蓉くんはなぜ家を出たのか、理由を聞いてみたのか?」
俺の問いに葵は髪を撫でる手を止めた。
「父のせいだったんだ。父が芙蓉を追い出した。俺たち兄弟を、引き裂いたんだ……」
「そ、それはどういう……?」
「父は芙蓉に言ったらしいよ。変態は家を出て行けって。弟に変態が感染ったらどうするんだって。そんなもの、感染らないよ、病気じゃあるまいし。俺は女装なんて面倒なこと、したいと思わないもの」
「変態って、その……」
俺は言葉を濁した。葵が五年ぶりに芙蓉に再会した時、彼は女の格好をしていた。ということは──。
「ニューハーフ、っていうのとはちょっと違うよ」
俺の考えを読んだように葵は言った。
「女になりたいわけじゃない。性的嗜好はノーマルだ。ヘテロ、ノンケ。つまり、恋愛の対象は女性なんだ。芙蓉の場合、衣装倒錯というのかな。男なんだけど女の格好がしたかった。ただ、それだけ」
「……」
それだけって。俺は何も言うことが出来なかった。えーと、えーと、ののかが男の子の格好がしたいと言ったらどうすればいいんだ? あー……。
「気持ち悪い? 芙蓉のこと」
俺の沈黙をどう取ったのか、葵がまっすぐに俺の顔を見つめていた。
「え? いや。そうじゃなくて。俺の娘が男の子の格好をしたがったらどうしようって考えて。っていうか、それくらいで未成年の子供に家を出て行けっていうものなのかとか、その」
しどろもどろになりながら、俺はなんとか答えた。
「俺の感覚でいえば、似合っていれば、別に。ストッキングからスネ毛が飛び出してたら嫌だけど。俺の知り合いにはオカマもいるし。こいつがまたきったないオカマでさ。鬼瓦みたいな顔してて、化粧した方がぶっ細工なの。最初はゲッと思ったけど、でもいいヤツだし。迫られたらそりゃ鳥肌ものだけど、そうでなけりゃ、別に個人の趣味というか」
葵はまだ俺を見つめている。
「そりゃ、親としてびっくりすると思うよ。びっくりして、酷い言葉も言ってしまうかもしれない。だけど、当時まだ十六歳だろ? 君が兄さんの、その、そういう趣味に気づいてなかったってことは、彼はちゃんとTPOを考えてたんだと思うんだ。出て行けって言って、本当に追い出すほどのことなのかって、それで」
「あなた、いい父親なんだね」
葵は言った。声がやさしかった。
「父は芙蓉に言ったそうだ。お前がいなくてもちゃんとスペアが居る。双子で本当に良かった、ってね」
「……」
スペアって何だよ?
俺は葵の言葉に一瞬唖然とた。それから、猛烈に腹が立ってきた。
「タイヤじゃあるまいし、その言い方は酷いな」
俺の声にこもる憤りを感じたのか、葵はくすっと笑って俺を見た。
「そうだよね。スペア・タイヤじゃないよね、俺たち。だから、怒って良かったんだ、芙蓉だって。でも、やっぱり自分は異常なんじゃないかっていう不安とか後ろめたさがあったらしくてさ──」
葵は眠る夏樹を見つめた。
「まだ十六歳だったし。その頃は親って絶対の存在だったから、黙って家を出て行方を晦ましたって……言ってた」
「行方を晦ましたって、じゃあ芙蓉くんは今までどうしてたんだ?」
俺は、もしののかがそんなふうに家を出て行ったらと思うと、他人のことながら気が気ではなかった。
「トシをごまかして、その手の店で働いてたってさ」
「って、ゲイバーみたいな?」
「そう」
葵は頷いた。
「どっちかっていうと、女装バーみたいなところ。知ってる?」
「えっと? ニューハーフのいる店かな?」
「ちょっと違う。ニューハーフもいるけど、芙蓉みたいに男なんだけど単に女の格好がしたいだけってのは他にもいて、そういうのがその店の中だけで女装するんだよ。外に出たら変態って言われるけど、店の中から外に出なければいいんだし。ま、趣味のサークルみたいな感じらしい」
「しゅ、趣味のサークルか……」
俺は突然現れた未知の世界に腰が引けそうになった。
「俺も実はよく分かってないんだ」
葵は息をついた。
「でも世の中にはいろんな人間がいるんだし。そう言えばさ、ちょっと前に女装して電車に乗って、身につけてた女物の下着だったかを乗客に見せて捕まった中年男がいただろ? そいつが芙蓉の働いてるような店のことを知っていれば、そんな事件を起こすようなことはなかったんじゃないかって、芙蓉は言ってたよ」
「うーん……」
俺は唸った。
「俺には分からない……ごめん」
「別に謝らなくてもいいんじゃない? 分からないものは仕方ないしさ。俺だって自分なりになんとなく理解しようとしてるだけで、本質的には分かってないんだと思うし」
「えっと。制服フェチ、っているけど」
俺は考えながら言った。
「警官の制服が好きで大好きで、帽子とかも通販で買って、自分の部屋でコスプレしてるヤツ、いるよな。その格好で外に出れば逮捕されるけど、家から出なければ誰も文句を言うことはできない。それと似た感じ? 女装したくらいで逮捕されることはないだろうけど……なんていうのかな。秘密の愉しみ?」
「あ、そうかも。秘密の愉しみ。女装バーには、そういう同好の士が集まっているわけだ」
葵はにっこりと笑った。
「女装バーはいいとして」
俺は眠る子供のあどけない顔を見た。
「夏樹くんが芙蓉くんの子なら、お母さんは……?」
十六歳だろうが、やることやれば子供は出来る。この子の母親はどうしたんだろう。俺の問いに、うん、と頷いて葵は答えた。
「夏樹の母親はいわゆる男装の麗人ってやつで、その女装バーでバーテンをやってたらしい。ちなみに、彼女も性嗜好はノーマル。芙蓉と並んで立つと、美男美女だったらしいよ」
「へえ……」
俺の頭はちょっとぐるぐるしかけたが、なんとか耐えた。
「結婚式は、もちろん彼女──日向夏子さんが新郎の格好で、芙蓉がウエディングドレス姿だったっんだって。すごい似合いの新郎新婦だったって、芙蓉が自慢してた。俺も見てみたかったよ、芙蓉の花嫁姿。俺がバージンロードをエスコートしたら面白かっただろうな」
「そ、そうかもね」
葵の考えは確かに面白い、かも。ちょっと頭が痛いような気がするけど、ま、いいや。なんだか幸せそうな感じだし。
「夏子さんは夏樹を生んだ時三十歳だった。年は離れてるけど、仲は良かったらしい。芙蓉が十六歳じゃ式だけで正式な結婚はできなかったけど、十八歳の誕生日に籍を入れたって。芙蓉が婿養子の形で入籍したから、あいつは今、高山芙蓉じゃなくて日向芙蓉なんだ。それにしても……」
突然葵はぷっと吹き出した。
「俺たちの名前が逆でなくて良かったよ。<日向葵>って書いたら、<ひゅうがあおい>じゃなくて<ひまわり>って読まれてしまうと思わない?」
俺は漢字を思い浮かべた。
「あー、確かに。<ひまわり>って読んでしまうだろうなぁ」
「でしょ?」
葵は笑った。
「どっちにしても、俺たちは花の名前だけどね。母さんがつけてくれたらしいけど、覚えてないや……少女趣味だと思うけど、俺も芙蓉も自分たちの名前は気に入ってるんだ」
葵の声は少し寂しげだった。
「かわいそうに、夏樹も俺たちと同じ。二歳になるかならないかの頃、夏子さんが病気で亡くなったそうだ。それ以来、芙蓉は男手ひとつでこの子を育ててきたんだって。夏子さんは女装バーのオーナーでもあったから、経済的にはあんまり困らなかったらしいけど」
「夏樹くんは、じゃあまだ四つかな?」
「うん。もうすぐ五歳だけどね」
「俺の娘は五歳だ。学校だったら同じ学年か、夏樹くんのほうが一学年下になるのかな。言葉は女の子の方が早いっていうけど、夏樹くんはおとなしいね」
「絵本を読んで聞かせたりはしてるんだけど、ちょっと引っ込み思案かな。でもかわいいよ。叔父馬鹿かもしれないけど」
葵は笑った。




