いつかの年の<俺> 藤の蔓 その9 完
「・・・」
俗世の未練、か。そうだよなぁ、やり残したこととか、残していく家族のこととか考えたら、すっぱり断ち切るのも難しいよな。
俺だって、もし今死んだら。
娘のののかのこととか、ののかのこととか、ののかのこととか心配でたまらないと思う。元妻にも幸せになってもらいたいし、元義弟の智晴だってあの年でまだ独身だから気になるし。よく散歩に行くグレートデンの伝さんや、将棋大好きの降旗さんや、いつも買い物を頼んでくれる田中のお婆ちゃんや、よく漬物くれる商店街のお玉さんや・・・
あああ、心残りがいっぱいだ。
そんなことを考えてたら。
ざああっ、と突風が吹いて、境内の木々の梢が揺れた。さわさわ、ざわざわ。葉擦れの音が、話し声みたいに聞こえる。いやいやそんなはずないよな、と頭を振って、何の気なしに藤棚の方を見やった時。
俺は凍りついた。
緑の葉を色濃く纏った藤の枝が、風に揺れている。ゆらゆら、ゆらゆら、まるで俺を手招きするように。
と。
バシッ!
「あいてっ!」
住職に肩を叩かれた。かなり強く叩かれたんだと思う。痛い。つい涙目になって振り返ると、住職はじっと俺の目を見て、言った。
「いけませんよ、魅入られては」
困ったような顔で微笑んでいる。
「こんな明るすぎる日は、却って心に隙が生じるようですね」
へ? どういうこと?
えっと・・・何だったんだろ? 頭のどこかがちょっと白くて・・・
「大丈夫ですよ、あなたは。心配することなど何もありません」
「はあ・・・」
「きっと、あなたには藤の蔓は必要ありません。大丈夫」
そっか。俺、大丈夫なのか。
って、何が大丈夫なんですか、住職!
釈然としないながらも、休憩を終えて俺はまた草むしりの仕事に戻った。縁側は涼しかったけど、日の遮るもののない庭はやっぱり暑い。
また風が渡って、藤の蔓が揺れる。その葉陰が、妙に小暗く見えたのはきっと気のせいなんだろう。
藤の蔓の効能?については、家の年寄りに聞いた実話です。
昔、ご遺体を荼毘に付すのにまだ人力が主流だった頃、その仕事に従事している方に、直接聞いたのだそうです。