「過去の亡霊―8」
前回のラストシーン
「僕は今、歩と渚と三人で暮らしている。僕らは、二人で渚を育てると決めたんだ」
マンションに乗り込んできた母・北詰マキ子に対して、勇介は自分自身の気持ちをはっきりと口にしたのですが・・・
「なにを、バカな!」
叫ぶなり、北詰マキ子は勇介に詰め寄った。体全体が小刻みに震えている。過去によく目にした状況に、勇介は心の中で舌打ちした。母はたびたびこういう風に父に詰め寄っては金切り声を上げていたのだ。
窓辺に追い詰められた勇介は、体当たりするようにしてなんとか母親から逃れると、和室からリビングへと移動した。
「待ちなさい!」
母が後から追ってくる。
「勇介さん、あなた、どうかしているんじゃないの? ちょっと待ちな……」
勇介は素早くリビングの電気を点灯した。蛍光灯の光がすべてを暴くかのように室内を照らすと、興奮気味だった母がひるんだように口を閉じた。
――それでいい。
勇介は心の中で言って、母親にソファに座るよう身振りで促した。北詰マキ子は、反抗的にアゴを上げるとダイニングの椅子を引いてどかりと座った。
勇介は小さくため息をつく。とにかく、興奮状態の母とはあまり口を利きたくない。まあ、淡々と理詰めでくるのも困るが。
渚をテレビの前に座らせて、アンパンマンのDVDをセットしてやる間、母は黙っていた。何をどう話そうか、いや、どうすれば母は帰ってくれるのかと、勇介は必死に考えを巡らせる。時間を稼ぐために「お茶を入れますね」と断りを入れると、速攻で却下された。
「お茶はいらないわ。座ってちょうだい」
勇介はテーブルを挟んで、母と向き合うように座った。テレビからアンパンマンのテーマソングが流れてくる。
興奮がいくぶん冷めたのか、母が小さくため息をつく。
「いったい、どうなっているの?」
何が? と言う目つきで、勇介は母親を見た。光沢のあるオレンジの花柄に、つい目が行く。趣味が悪いなと思う。
(父さんが生きているときには、ここまで派手じゃなかったのに……)
勇介の沈黙を受けて、マキ子は口を開いた。
「もっと、あなたのことに注意を払うべきだったわ」
「やめてくれ。ぼくは社会人だ」
二十七にもなる息子を前にして、何を言い出すのかと勇介は思わず苦笑する。それが母のカンに障ったようだった。母の声がワントーン高くなる。
「あなたの父親がバカな事をしでかしたせいで、あなたはS大病院をクビになって、今じゃ、ちっぽけな市民病院の、しかも救命救急。
S大病院の第一外科の教授も夢じゃないと思っていたのが、よりによって救急……。キツイだけで何の得にもならない所で、安い賃金でこき使われて……。私、恥ずかしくて、恥ずかしくて……」
勇介は無表情に母親を眺めた。
そうだろうな、と思う。母にとって何より大切なのは、「医者」という職業自体ではなく、「S大学病院の医者」というブランドなのだ。だが、クビになった以上、そんなのはこちらの知ったことではない。
「恥ずかしいなら、さっさと縁を切ればいい。そうすれば、ボクがどこで働こうと母さんにはもう関係ないでしょう」
勇介が吐き捨てるように言うと、マキ子は身を乗り出してきた。
「あなた、忘れたの? 父さんのことで、散々週刊誌に叩かれたじゃない。それなのに、どうして、よりによってあの女の血縁者の世話なんかしているの? こんなことが知れたら、また何を言われるか」
勇介は無言で母親の顔を見つめていた。マキ子のなじるような声が続く。
「いい年をして、娘みたいな女と不倫をしたってだけで十分みっともないのに、子供まで作って。挙句の果てに不倫旅行で事故死……。おかげで、あなたの将来はメチャメチャ。さらに、そのバカな父親の血を引く気の毒なあなたは、何が楽しいのか残された子供らの面倒を見ている。人がいいのを通り越して、ただのマヌケね。お母さんの立場も考えてちょうだい! 世間の笑いものですよ、まったく!」
興奮状態で一気に捲くし立てると、マキ子はガバッと椅子から立ち上がった。テーブルを回りこみ、無表情で黙っている勇介のアゴをつかんで、その瞳を覗き込む。
「これ以上、みっともないマネは許さないわよ。早々に子供らを追い出して、あの写真の中の、誰でもいいから見合いをしなさい。変な噂が立たないうちに、早く身を固めてマトモな生活をしてちょうだい」
「断る!」
勇介はキッパリと低い声で言った。
「二人を追い出すなんて、とんでもない! 彼らはもうボクの大切な家族なんだから!」
勇介の言葉にマキ子のこめかみが痙攣し、青筋が浮き上がる。
「か、家族ですって? 冗談じゃないわ。まったく、親子そろって呆れるわね。あの、捨て犬みたいな瞳にコロッと騙されて」
ダンッ!
勇介が力任せに右手の拳でテーブルを殴りつけた。
「それ以上云うな!」
母の目が、テーブルを殴った勇介の拳を凝視する。
「パーパ?」
足元に気配を感じて勇介はハッとした。いつの間にか渚が勇介の足にまとわりついていた。黒目がちの瞳が、まっすぐに見上げてくる。勇介は渚のやわらかい髪をくしゃっと撫でた。
自分の気持ちは決まっている。誰に何を言われても、揺るがない。
(こんな俺でも、守らなくちゃならないものがあるのだから)
「帰ってください」
そう言って、勇介は立ち上がった。マキ子がわずかに身を引く。
「見合いもしない。あなたの言うとおりにはならない」
「フッ……」
マキ子が乾いた赤い唇の端を上げて笑う。けっして若くはないが、勇介そっくりのゾクリとする美しさだ。
「やっぱり、あの言葉を気にしているの?」
マキ子は猫なで声で息子に語りかけた。
「歩と渚をたのむ……。勇介さん、あなたそれをずっと気にしているのでしょう? お父さんとの最期の約束だものね。あなた、本当に優しいから……」
「違う」
「違わないわ。あなた、あの言葉に縛られているのよ」
そうなのだろうか。父の言葉がきっかけだとしても、二人と一緒にいたいと思う気持ちは自分の中に自然に芽生えたもの、の……はず……
「あんな状況で聞いてしまったから仕方がないことだけれどね。でも、そんなものに縛られることなんてないのよ。それに、他人のために結婚もせず、人生を棒にふるみたいなことをするなんて、まったくバカのすることよ。そうでしょう?」
マキ子は視線を落とし、勇介の膝にまとわりついている渚を見た。
「こういう子どもには、それなりに行き場所があるわ。専門のスタッフだっている。そこでだって、子どもはちゃんと育つのよ。いえ、むしろそういうところで同じ境遇の仲間と育ったほうが、こういう子にとっては幸せなのよ。だから、子どもは母さんに任せて……」
言いながら伸びて来た母の手を、勇介は勢いよく払った。
「よせって言ってるだろ!」
「子どもを育てるなんて、あなたには絶対に、ム・リ・よ」
一語ずつ区切ってマキ子は言う。
勇介はギリリと唇を噛みしめた。喉の奥から絞り出すように言う。
「出てけ」
「いいわ。今日のところは引き揚げましょう。また来るわ」
マキ子は勝ち誇ったように、息子の青ざめた顔を見て笑う。
「だって、この家には電話がないし、あなたの携帯だっていつも留守電でしょう? だったら、来るしかないじゃない?」
「来るな……」
「え?」
マキ子は聴こえないフリで問い返す。
「二度と来るな」
冷たい声で言う勇介に、マキ子は甘えるような声音で返す。
「あらぁ、この世にたった一人の家族に、会いに来てはいけないの?」
「さっき言ったはずだ。オレの家族は歩と渚だけだ。さっさと、あの若い愛人の所に帰れよ! あんたなんか、母親じゃない! 家族じゃない!」
「ダメだ!」
突然割り込んで来た声に、勇介とマキ子は固まった。振り向けば、リビングの入口に歩の姿があった。
北詰マキ子、強烈ですね。
このあと歩とマキ子と勇介の三つ巴?
いったいどうなるのか、作者にもわかりません^^;