「過去の亡霊―7」
勇介母登場で、雑居生活がピンチに・・・
わずかな沈黙のあと、二人は争うようにして和室へ飛び込んだ。一瞬早かった勇介が渚を抱き上げてしっかりと胸に抱える。
「それは、なに?」
母の顔は、もはや紙のように白くなっていた。ぱくぱくとあえぐように口を開け閉めするが、続きの言葉が出ない。
勇介は開き直ったように言い放つ。
「なにって、見ればわかる。子どもだ」
目を大きく見開いたまま、母はようやく声を出した。
「……あなたの?」
「え? なんで……」
まさか、そう来るとは思わず、一瞬沈黙してしまう。
「ちがうの? じゃあ、誰の……」
「あ……」
勇介は、否定するより肯定するべきだと気づいたが、
「ああ、ぼくの子どもだ」
「うそよ!」
遅かった。
さっきの冷静さは跡形も無くなり、母の声が上ずる。勇介は渚を抱く腕に力を込め、じりりと窓辺にあとずさった。
母――北詰マキ子は、開け放った襖にもたれかかるようにして、和室の中を目だけでなぞる。夕陽の残り火が室内にわずかな明るさを投げている。その目が、壁にかけられた写真の上でとまった。
母の赤い唇から低い声が漏れた。
「あの女の子どもね」
「だったら、どうする」
「認めないわ。とっくに施設へでもどこでも行ったと思っていたのに、なんでここに?」
母の言葉に、勇介は目を剥く。
「なんでって、母さんが父さんたちのマンションを、勝手に引き払ってしまったからじゃないか!」
あの部屋があれば、歩と渚は路頭に迷うことはなかったのだ。あのときの母の強引さを思い出し、勇介の胸にふつふつと怒りがこみ上げて来た。
――歩と渚をたのむ。
父の、最期の言葉が勇介の脳裏をよぎる。
「父さんの遺志は、どうなる?」
「はあ?」と、小馬鹿にしたような調子で言い、北詰マキ子は乱れた前髪を撫でつけた。勇介はなるべく冷静を装って話すが、語尾が震えた。
「父さんは、この子を面倒見るつもりでいたんだろう? それなのに……」
「認知の書類は無くなってしまったわ」
「あなたが破いたんじゃないか!」
「あら、そうだったかしら?」
「母さん!」
とうとう勇介は声を荒げた。腕の中で渚の体がビクンと跳ねて泣きだした。
「ごめん、渚……。ごめんよ」
やわらかい耳に口づけるようにして、小声でささやくと、渚は力いっぱい首にしがみついてきた。
(この子を守らなければならない)
温もりと重みが、勇介の気持ちを鎮めてゆく。
目を上げると、母の冷たい視線があった。
「勇介さん、あなた、自分が何をしているのかわかっているの?」
黙ったまま、でも、目だけは逸らすまいと思う。自分のしていることなどわかっている。一緒に生きていくと決めたのだ。家族として、三人で暮らしてゆくと決めたのは、勇介自身なのだから。
北詰マキ子は、いらついたように何度も前髪を撫でつける。手を動かしながら、何かを思案しているようだった。
勇介が先手を打つように言う。
「母さんには関係ない。迷惑をかけるつもりもない。それでも嫌だというのなら、僕との縁も、切ればいい。渚の書類を破り捨てたように」
「なんですって!」
ヒステリックに叫ぶと、北詰マキ子はずかずかと和室に踏み込んで来た。渚の寝ていた布団の上に仁王立ちし、腰に手を当てて勇介を睨む。
「その子どもを寄越しなさい」
モノをねだるような仕草で、こちらに向かって右手を突き出す母を見て、過去の記憶がよみがえる。
――捨ててきなさい
そう言って、勇介が抱えたダンボールを取り上げようとした母。雨に濡れた箱の中には、小さな命が寄り添って鳴いていた。
ずいぶんと大人になるまで、そのときのことをよく夢に見た。夢の中で、やっぱりダンボールは母親によって奪われることとなるのだ。過去に囚われているせいか、同じシーンを何度も繰り返し、それと同じ数だけ夢の中で後悔した。なぜ、手離したんだろうかと。
もう、後悔したくない。そんな気持ちを込めて、勇介は渚の小さな背中を優しくさする。
すると、突然母の声のトーンが変わった。
「勇介さん、そんなに子どもが欲しければ、早く結婚すればいいのよ。あのお見合い写真の中なら、母さん、誰でもいいわ。みんな独身だし、家柄も……」
「結婚なんてしない! もう、僕にかまうな! この子は、僕らが育てる。渚は僕らの子どもだ!」
母の言葉をさえぎるように、勇介は言い放つ。驚愕した目線が、壁の写真と勇介の間を行ったり来たりする。
「僕ら……?」
母の目が、勇介の顔で固定した。勇介はうなずき、ゆっくりと言った。――自身を落ち着かせるために。
「僕は今、歩と渚と三人で暮らしている。僕らは、二人で渚を育てると決めたんだ」
勇介ママは初回から出しており、作者の中にそれなりにイメージはありました。でも、書いてゆくうちに、だんだんと変わってきているというか。強烈なのはそのままですが、やはり母親として「主人公・北詰勇介」を育て上げた人物というのを重視すると、また当初とは違う人物像になってきそうです。