過去の亡霊――割り込み番外編「歩の懊悩」
いつもと違う動きを見せる勇介。
そんな勇介に眉をひそめる歩は・・・
携帯電話をポケットの中にしまうと、鳴沢歩は履き替えたばかりの革靴を脱ぎ、上履きを下駄箱から引っ張り出した。
勇介からメールで「渚のお迎えは要りません」とメッセージが来た。いつものように、授業の終了と共にカバンを背負って教室を飛び出し、昇降口まで来たところだった。
(勇さん、どういうつもりだ?)
歩は教室へと引き返す。時間があるなら、学校でやらなければならないことはたくさんある。成林高校の行事で、もうすぐ夏祭りがある。これは文化祭の趣旨を持っており、各クラス単位でひとつ、何か出し物をしなければならない。歩は、本人が知らないうちに、なぜか企画実行委員長という大役になっていた。渚を保育園に預けてから登校している歩は、毎朝授業開始ぎりぎりに教室に滑り込む。近頃朝のショートホームルームで行われている夏祭りの話しあいには一度も参加しないうちに、勝手に役割分担は決められていたのだった。
「本人の承諾も無しに、勝手に決めるのはナシだろう!」
抗議したが決定は覆らなかった。いない方が悪いと言われ、それでおしまい。もっと食い下がればなんとかなったかもしれないが、遅い登校の言い訳をしたり、誰かと言い争ったりする気力や体力は、歩にはなかった。特に、渚のことは言いたくない。中学生だったころ、渚を背負って歩いていたら、同級生から「ベルゼ××」(←著作権に触れるといけないので^^;)とやじられた。後になって、赤ん坊を背負った学生の出てくるマンガだと知ったのだが、理由はともかく笑われたことがショックだった。だから、そいつらが入れないようなレベルの高い高校に行ってやると猛勉強したのだ。おかげで今、成林高校には、歩の知り合いはほとんどいない。
せっかく落ち着きつつある環境で、渚のことが知れれば、また騒がしくなるかもしれない。姉の不倫に触れらてしまうかもしれない。白い目で見られるのは腹が立つし、かといって同情されるのもまっぴらだ。だが、言うべきことを飲み込んで、唯々諾々と流していたツケは溜まっており……
とにかく至急出し物の企画書だけは作らなければならなかったので、歩は自席に座ってノートを広げた。
はらりと一枚、プリントが落ちた。
足元に落ちたソレを、畳み直してポケットにねじ込むと、小さく息を吐く。
担任から歩の保護者に宛てた特別な手紙だった。そこには、学校の方針として進路に関してどうしても一度保護者を交えて面談しなければならないので、都合の良い日時を教えて欲しいといった内容が記載されている。だいぶん以前にもらったのだが、歩はそれを勇介に渡せずにいた。名目上保護者として登録されているが、歩の中で勇介は保護者などという立ち位置には無かった。
――家族でしょう?
勇介はそう言ってくれる。たぶん、本気で言ってくれているのだと思う。だからこそ、甘えることができないのだ。
卒業後の進路として就職を選んだのは歩の意志だが、勇介はきっと反対するだろう。経済的な理由を上げれば、勇介はそれを解決するために「後で返せばいいから」と言って金を出し、大学進学を強く勧めるに違いない。歩が以前、家賃の件を言いだしたときと同じ流れだ。ならばと、渚を理由に「受験勉強が出来ない」という言い訳も考えていたが、口にする前に先手を取られた。朝早く起きて渚を見てくれようとしたり、お迎えを申し出てくれたりと、勇介が急に行動し始めたのだ。
ちゃんとした大人になって欲しいと勇介は言った。それは、世間の大多数の高校生が進むのと同じ道を歩かせたいと思っているのだろうか。
――普通じゃないことが起きたからこそ、これからの人生は、普通に過ごしたいの。私は普通に結婚して普通の主婦になって……
歩は普通の高校生から普通の大学生になって、それで、とにかく普通の大人になって欲しいな。
両親の遺影を前にして、姉が言った言葉が突然鮮やかに思い出された。性別も年齢も何もかも違うのに、ときおり勇介の中に姉の杏子を感じるときがある。
だからだろうか……
自分の中のいろいろな決めごとがぐずぐずになってゆく気がする。杏子が亡くなったとき、自分ひとりで渚を育ててみせると誓ったはずなのに、その決意はどこへ行ったのか。あろうことか、勇介の前で「ひとりになりたくない」と言って泣きじゃくるなど、いったい自分はどうなってしまったのだろう。
(ちくしょう!)
勇介に笑顔で諭されると、つい首を縦に振ってしまうのが、なんだか悔しい。なのに、つい勇介の差し伸べる手にすがりたくなってしまう。
怖い、と思った。
一度甘えたらずるずると寄りかかってしまいそうな、甘美な誘惑をはらんでいるだけに、怖い。
両親が亡くなってからずっと、誰かに依存しながら生きて行かなければならなかった。施設に入り、そこを出てからは姉に依存し、そして今、勇介といるのが当たり前になってしまいつつある。大きな流れにまかれ続けて――夏祭りと同じように――唯々諾々と日々暮らし、食い下がることを忘れたツケだ。
――こんなことではいけない。ただ寄りかかるだけなんて、そんなのは「家族」じゃないだろう!
歩はノートを一枚切り取ると、『浴衣カフェ企画書』とタイトルを書いた。
勇介だけでなく、歩も学校でいろいろと大変なことになっておりますが、なんとかがんばってもらいたいです。(まるで他人事だな^^;)