「過去の亡霊―5」
渚の保育園にやって来た勇介。
園長に「話がある」と呼ばれて・・・
園長室に通された勇介は、古びた応接セットに座ってかしこまった。自分は渚の保護者としてここにいるのだと思うと、なぜだかとても緊張する。もしも黒崎に見られたら、きっと彼女は驚いてこう言うだろう。
――何ソワソワしてんの? いつも病院ではムカツクぐらいに落ち着き払っているのに。まったく、北詰先生らしくないわね――とかなんとか……
目の前のソファに座った園長は、メガネの奥から勇介を上から下まで……とは言わないまでも、かなり興味津々で見ている。何を言われるのだろうか。幼児の面倒を、毎日子ども(歩のことだが)に見させている無責任保護者とでも言われるかもしれない。
渚がそばに居ればよかったのにと思う。さすがに、子どもの前で保護者を悪く言う者はいないだろうから。渚はつい今まで勇介にべったり張り付いていたが、軽快な音楽が鳴ったとたんに放してくれと言わんばかりに暴れ、保育室の方へと姿を消した。
「あの、渚はまだ連れて帰れないんでしょうか?」
おずおず尋ねると、園長は言った。
「連れて帰るのはかまいませんけど……今は無理だと思いますよ。おやつの時間だから」
「え……」
(パパよりおやつなのかよ……)
なんだか、へこむ。
「渚のやつ、けっこう食い意地が張ってるんだな……」
思わず言葉が口からこぼれてしまう。
家での食事はたいてい遊び食いをしているので、食が細いのか興味がないのかどちらかなのだと思っていたが、違ったようだ。
「子どもはみんなと食べるのが楽しいんですよ。それに、保育園では自分の分をしっかり食べておかないと、お友だちが手を出してくるから。幼いなりにも思うところがあるのかもしれませんね」
勇介のつぶやきを聞いた園長がそう言って「ほほほ」と上品に笑う。
勇介はたずねた。
「あの、渚は普段、どんな様子ですか?」
勇介の質問に対し、園長は怪訝な表情で返事する。
「園での様子は保育ノートに毎日書いてお渡ししてますよ。それに、お迎えのとき、担当の保育士から歩ちゃんに、毎回細かい報告がいってるはずですけど?」
「え、そうなんですか?」
園長はうなずく。
(しまった、無責任保護者丸出しだった!)
とはいえ、『保育ノート』なるものの存在を知ったのはよかった。渚に関しては、それを読めばある程度は把握できる。
問題は歩だ。
なんとかして歩の日常を知りたいのに、どのようにきいたらいいのかわからない。元々、人と話をするのはあまり得意ではない。それどころか、しゃべるほどにボロが出そうだ。
勇介が黙り込んでしまうと、園長が口を開いた。
「お医者さまなんですって? 北詰さんは。それも、凄腕だって聞いてますよ。お若いのに、たいしたものだわ」
「あ、医者ではありますが、腕は別に……」
歩はいったい何をどのように話しているのだろうか。
「心配な患者さんがいると、いつも病院に泊まり込むのだそうですね。当番でもないのに。責任感があるというか……。本当に大変なお仕事。誰でも真似のできることじゃありませんよ」
園長はしきりにうなずく。聞きたいのは歩のことであって、自分のことではない。それを初対面の人から聞かされるのは、勇介にとってむずがゆいような、居心地の悪いような、なんとも言い難い気持ちになる。
「あの、それは、あーちゃ……歩くんがそう言ったのですか?」
ええ、とうなずき、園長はぽつりと言った。
「久しぶりのことだった」
久しぶりとはどういうことか。首をかしげる勇介に、園長は続けた。
「あれ以来、自分たちのこと、あの子あまり話さなくなってしまったから……」
「あ……」
あれとは、事故のことかと思い当たる。
「お姉さんが亡くなってからも、歩くんは変わらず笑顔でしたけれど、それがとても痛々しくて……。でも、あなたと同居を始めてから変わったわ。あなたのことを、とても自慢げに話してくれるの。その笑顔が、お姉さんのことを話すときと同じだったから、私はとても嬉しかった。あなたのおかげです。あなたが一緒にいてくれて、支えてくれて、あの子たちがどれほど救われているか。北詰さん、あの子たちの家族になってくれて、本当にありがとうございます」
丁寧に頭を下げられ、勇介は面食らった。居心地が悪いを通り越して、もはやいたたまれない。
勇介の腕の中で、初めて心の内を吐露した歩。あの夜のことが、まるで夢だったかのように、その後も歩はまったくいつもどおりに振る舞っている。だが、歩が大きな傷を抱えているということを、勇介は知ってしまったのだ。彼の心の奥深くを見通すことができなくて、どうして家族だといえようか。
「お礼を言われるなんて、違います。ぼくは、何もしていない。何もできない。だから……」
「それでもありがとうと、お会いしたら、どうしてもひと言いたかったの。子供にとって、なにより居場所があるということが大事なんです。ただ場所を提供するという意味ではなくて、ね。だから、感謝しています」
顔を上げた園長の目から、つつっと涙がこぼれた。「居場所」なら、保育園でも学校でも施設でもよい。それなら、勇介でなくてもだれか別の、そう、目の前の園長先生にだって提供は可能なのだ。だが、歩たちの欲する「居場所」は、そういうことではない。安心して暮らし、心豊かに成長してゆける場所。家族として暮らしてゆける「家庭」。
勇介がハンカチを差し出すと、
「あ、ごめんなさい。わたしったら」
園長はメガネを外し、受け取ったハンカチでそっと涙をぬぐった。
「それにしても、想像以上ね」
「え?」
「北詰さん、素敵な方だなって……」
「は?」
首をかしげる勇介に、園長が頬を染めて言った。
「歩くんに、あなたのことをたずねたとき、開口一番こう言ったの。『勇さんはすごい美形です。イケメンなんて軽い感じじゃなくて、正真正銘の美形なんです』って。あんまり力こめて言うから、それもあって……。ぜひお会いしたかったのよ」
今涙をこぼしていたはずなのに、園長は勇介のハンカチを握りしめたまま、楽しそうに笑う。勇介は曖昧に笑い返した。女性にモテるのはいいが、さすがに園長先生は勇介の守備範囲を逸脱している。
「夏には園庭で花火の会をやるので、ぜひいらしてくださいね。花火のときは、パパさんたちが大勢来るから楽しいですよ」
園長はハンカチを自分のポケットに入れながら言う。
「あ、はい……なるべく参加したいです」
返事をしつつ、勇介はハンカチがもはや回収不能だということを悟った。
渚を引き取って、元来た道を戻る。おやつを食べてお腹が満たされているのか、渚は勇介の腕に抱かれてすぐに、うとうとしはじめていた。
駅に向かって歩きながら、歩に『お迎えは要らないよ』と、メールを入れた。入れたとたんに速攻で返信があった。
『どうしたの? 何かあったの?』
メールを見て、勇介は苦笑する。
(そりゃそうだな。どういう風の吹きまわしかって、そう思われても仕方ないか……)
いつも仕事仕事で忙しくしていたのは事実だ。だが、けっして渚の面倒を見たくなかったわけではない。医者としての使命もあったが、独身の同僚である黒崎や浅川の手前、家庭持ちの噂を否定したい気持ちがあったのかもしれない。仕事は仕事、家庭は家庭と割り切っているのが、どこかクールだと勘違いしていた。だから、なんとなく帰れるときでも意地になって帰らなかったことが、確かにあった。それが歩には、ひどく忙しそうに見えたのだろう。そのせいで、彼は渚の面倒や家事を自分ひとりでやらなければならないと思い込んでしまったのだ。
(オレに負担をかけたくないばかりに……)
いつも誰かのことを気にかけている。歩とは、そういう少年なのだ。
それにしても、保育園で自分が歩の話題に上っていたとは。
(それって、きっと、ある程度は好かれてるってことで、間違いないよな?)
歩が慕ってくれている。そのことが嬉しくて、自然と口元に笑みがこぼれた。
連載を再開して1ヶ月が経ちました。以前に比べてスローペースの更新ですが、けっこういっぱいいっぱいになっている自分がいる(^^;)
楽しみにしていてくださる方はいるのだろうか。
ひとりよがりになっていないだろうか。
そんなことを考えて、ちょっと今、ヘタレになっているのかもしれません。がんばらねば。