「夏の宵夢―4」
夜のとばりが降り、市立総合病院の白い建物を黒く覆う時刻。駐車場を照らす街路灯の他に光ともる場所と言えば、救命救急センターのある別館搬送口だけだ。
背の高い男性がひとり、その光の中から姿を現した。
「すっかり遅くなっちゃったな」
北詰勇介は湿気を含んだ夜気を吸い込み、思わず眉をひそめる。昼間の暑さが残滓のようにアスファルトにしがみついているのか、駐車場を横切りながら汗ばむのを覚えた。ポケットをまさぐりタバコを取り出して一本くわえたところで、勇介は立ち止まる。背後から、パタパタと忙しないサンダルの音が迫って来た。
(これって、ヤバくね?)
不穏な空気を察知して、振り向かぬまま逃げ出そうとしたところで、ワイシャツの背中を掴まれた。
「はなせ」
不機嫌な声で振り向けば、宮下看護師がニキビ面に満面の笑みを貼り付けている。
「よかった! 北詰先生、つーかまえた!」
「今日はもう、帰るんだが?」
――そう、明日は大事な約束の日だ。
めったにない歩のおねだり(勇介は勝手にそう認識しているが、歩としては単なる頼み事である)を叶えてやらなくてはならない。ゆえに、ここで宮下につかまるわけにはいかない。
勇介は、ワイシャツをつかんでいる宮下の手を、ぴしゃりとはねつけた。
「悪いが急いで帰りたい。用事なら手短に……」
言ったとたんにどこかから救急車のサイレンが聞こえ始めた。
「心肺停止のあと、AEDで蘇生したらしいんですけどっ」
――聞くな、俺! 聞いちゃいけない!
耳をふさぎ、顔を背ける勇介の前に、宮下は体ごと回り込んで来た。
「子どもみたいなこと、しないでください」
耳をふさぐ手を引きはがしながら、宮下は諭すように続ける。
「心筋梗塞の患者さんですよ?」
「そんなこと言われても、そもそも勤務時間はとっくに過ぎて……」
「そんな、お役所みたいなこと、言わないでください!」
口を引き結んだまま動こうとしない勇介に、宮下は殺し文句を繰り出した。
「北詰先生は心臓外科医でしょう? 先生じゃなきゃ、ダメなんです!」
二人の会話をかき消すように、サイレンの音が大きくなる。
「ほら、もう到着しちゃいますから!」
夏の宵闇を払うように、赤色灯が点滅しながら近づいてくる。
「ハア……」
肩を落としてため息をひとつつくと、勇介は明かりの灯る救命の搬送口に向かって引き返した。
「患者は六十代の男性、狭心症で通院、ニトログリセリンを処方されているようです」
救急隊員からの情報を聞きながら、ストレッチャーに乗せた患者の脈をとる。胸部CTの画像待ちだが、おそらく開胸手術になるだろう。今からオペに入るとして、その後の処置を済ませたら、いったい何時になるのか。
――いや、何時になろうとやるしかないし、あーちゃんとの約束も違えるわけにはいかない。それだけのことだ。
「宮下、至急PCPS用意してくれ」
指示を出せば、宮下はニキビ面に得意げな笑みを浮かべて言った。
「もう、準備できてます!」
手術着に着替えてオペ室に向かうころには、時間のことも、歩との約束も、すべて頭の中から消え去っていた。
手術は明け方まで続いた。患者の家族が来院し、病状の説明や今後の治療についてなど、諸々の処置を終え、帰宅の途につくころには、歩の登校時刻が迫っていた。
「やばいやばい!」
一応帰宅が遅れる旨のメールは送ったが特に返信はなく、それがまた勇介の気持ちを焦らせる。
少々乱暴に車を走らせて、マンションの駐車場に滑り込む。大急ぎでエレベーターに飛び乗り、ようやく詰めていた息を吐いた。
飛び込んだ自宅に歩と渚の姿は無かった。保育所は休みだから、勇介以外に渚を預ける先などあるはずもないのに。
(――ということは、連れて行った?)
学校行事に赤ん坊を連れて行くなど、まずいだろう。
仕方なかったとはいえ、これは自分の責任だと勇介は唇を噛む。
(約束したのに……ごめん、あーちゃん)
がらんとしたリビングの立ちつくし、ひとしきり自責の念に陥ったあと、勇介は自宅をあとにした。
――とにかく学校へ行こう。
空は青く冴え、そそぐ陽光は気温を上昇させる。間もなく本格的な夏の到来だ。
生い茂った木々と、年季の入った校舎が歴史を感じさせる、県立成林高等学校の表門を前に、勇介は逡巡していた。鍵はかかっていないが校門は閉ざされており、来場者はおろか、生徒の姿も無い。校門のすぐ奥に夏祭りの立て看板を見つけ、勇介は舌打ちする。どうやら夏祭りの開始時刻にはまだ早いらしい。
「てか、あーちゃんて、何組だっけ?」
以前、面談に行ったはずだが、クラスも担任の名前もまったく思い出せなかった。
どうしたらいいのかわからず歩に何度も電話をかけるが、いっこうに通じない。実行委員長だと言っていたから、きっと忙しく動き回っているのだろう。
(まさか、また渚をおぶって走り回っているとか?)
高校入学前の時期、アパートを追い出されそうになった歩が、部屋さがしに奔走していた場面を思い出す。華奢な身体で泣きじゃくる渚を背負って一日中街なかをさまよう姿を想像すると、今でも切なくなる。
そのとき、チャイムが鳴り、しばらくして校舎全体がざわめき始めた。制服だけでなく、Tシャツ姿やコスプレのような恰好をした生徒たちがそとへ出て来た。
勇介は歩の姿を求めて、生徒たちの中へと踏み込んでいった。
更新が遅れまして申し訳ありませんでした。
2016年、なんとか少しずつでも完結に向かって書くことができたのは、ひとえに読んでくださるみなさまのおかげです。ずっと休載していたにもかかわらず、応援し続けてくださった方々に感謝申し上げます。
2017年は1月15日更新からのスタートを予定しています。予定は未定なのですが、できるだけ守れるよう努力し、そして完結したいと思います。ありがとうございました。そして、来年もよろしくお願いいたします。 (冴木 昴)