「夏の宵夢―3」
リビングのソファで医学書を読むでもなく膝の上にひろげながら、勇介は和室から出てくる歩を待ちかまえていた。
それにしても、母はいったい何をしに来たのだろう? 昨日は、普通なら出歩く気にもならないほどの悪天候だったはずだ。
(それほど大事な要件って、たぶん献金のこと……いや、現金が動いたとは聞いていないから、一応利益供与になるのか……?)
カタンと音がして、歩が和室の襖から出て来た。大きく伸びをしながら眠たそうに目をこする仕草に、勇介の口元が思わず緩む。
(迷惑かけたからな、お疲れのところ申し訳ないけど……てか、猫っぽくて、なんか癒される~)
小動物系の愛らしさ全開の歩は、とにかく、無性に撫でまわしたい衝動に駆られる。
手招きすると、歩は素直に勇介の隣に座った。
「で? 勇さん、何が知りたいの?」
茶色がかった瞳でまっすぐに見つめられ、撫でようとした手が止まる。思えば、今は、そういう空気ではないのだ。
母が来たときの様子をたずねると、歩はちょっと困ったような顔をした。
「実はお母さんが、勇さんには言わないでって。だから……」
――ナルホド。
マキ子との約束を尊守しようとする少年の、その律義さに頭が下がる。
「二日前に、俺が実家に行ったんだよ。それで訪ねて来たんじゃないかと思う」
そう告げると、歩は肩をすくめて話してくれた。だが、歩が話してくれたことは、逆の意味で勇介を驚かせた。
「え? 酔っぱらってたって? おかあさ……母が?」
「うん、俺のこと、姉ちゃんと間違えてさあ。勇さんとおんなじ! めんどくさいったらないよ」
口をとがらせた歩が上目遣いで睨み付けた。
「それは……。重ね重ね、申し訳ない」
勇介は、穴があったら入りたい心境に陥る。
――しかし、なあ。
あのマキ子が、人の区別もつかぬほどに酔っぱらっている姿など、勇介にはまったく想像がつかなかった。しかも、勇介の書斎を勝手にしたのが、歩の学習空間を確保するためだったと聞き、さらに驚いた。
――いったい、どういう風の吹き回しなんだ?
勇介なりに、自分の母親の性格は把握しているつもりだった。教育熱心なことは否定しない。でも、歩がその対象に入るとは思いもよらなかった。なにしろ、父も杏子も亡き今、歩と渚は母の憎悪の対象でしかないと思い込んでいたからだ。
「俺が勉強してる間、ずうっと渚の面倒みてくれたんだよ。しかも、面倒みながら晩ご飯も作ってくれてさあ、すごくね?」
「あ、ああ……」
勇介は曖昧に相槌を打つ。
マキ子と歩と渚。その三人が、この閉鎖的な空間に長時間一緒にいて、しかも平和が保たれていたなど、勇介の想像を超えた珍事としか言いようがない。なにしろマキ子は、ことあるごとに二人を追い出せと喚き散らしていたのだから。
――もはや、別人じゃないのか?
歩は、黙り込んでしまった勇介の様子をしばらく気にしていたが、突然「あ!」と言ってキッチンに駆け込んで行った。
すぐに戻って来た歩は、厚みのある封筒を手にしている。それを勇介の膝に乗せると、袋の中でじゃらりと金属音がした。
「それ、マキ子さんが帰ったあと、ソファにあったんだ。たぶん、勇さんに渡して欲しかったんじゃないかな」
封筒の中からは、キーホルダーに付いた鍵が三つ、じゃらりと出て来た。
自宅の鍵をわざわざ封筒に入れて持ち歩く人はいないよね? と、歩は察しの良さを発揮する。確かに、彼の言う通り、それは先日マキ子が持って行くようにと寄越した鍵束だった。封筒の中にはメモが一枚入っていたが、それにはただ、携帯電話の番号らしき数字が書きなぐってあるだけだった。
(電話して来いってことかよ……)
ガラスのローテーブルの上に、鍵束とメモを放り出し、勇介は立ち上がった。
「勇さん、これ……」
振り向くと、歩が鍵束に目を向けている。
「あーちゃん、悪いけどこれ、どこかにしまっておいて」
「うん……じゃあ、キッチンの引き出しに入れておくからね。お財布とか、入ってるとこだよ」
うなずいて踵を返した勇介は、袖を引かれてもう一度振り向く。
「あの、さあ……」
勇介の袖をつまんだまま、歩は何か言いたげにしている。
勇介はハッとして自分の顔に手をやった。指先が眉間の縦じわに触れる。気難しい顔になっていたのだと気づき、慌ててぐりぐり揉みほぐしていると、歩がプッとふきだした。
「え、何で笑うの?」
「だって! あはははは!」
ツボにはまってしまったように、歩は体をくの字に折り曲げて笑っている。勇介もつられて、いつの間にか声を立てて笑っていた。
ようやく笑いを収めた歩は、ポケットから一枚のペーパーを取り出した。勇介の手に押し付けながら、どこか遠慮がちに口を開く。
「あのさ、今度の土日、学校の夏祭りなんだ。それで、俺、なんかよくわかんないうちに実行委員長になっててさ、さすがに両日とも行かないとやばいっていうか……」
手に取ったペーパーは保護者宛てで、「夏祭りのご案内」と書かれていた。ポケットからスマホを取り出しスケジュールを確認する。日曜日が非番になっている、と言おうとすると、歩が先に口を開いた。
「日曜日、休みだよね?」
「ああ」
さすがというべきか、歩は相変わらず勇介の勤務スケジュールをしっかり把握しているようだ。
「土曜日は保育所あいてるんだけど、日曜日が休みだからさ。渚、お願いします」
「ああ、もちろん」
そんなことかと請け合うと、
「――二人で、来てくれるよね?」
歩が伺うように上目遣いで確認する。ほんのり頬が赤くなっているのは、たぶん照れているのだろう。
(これって、あーちゃんからのおねだりだよな。うわ、珍し!)
「もちろん、行くに決まってる」
「よかった! 俺たち、浴衣カフェやるからさ。絶対来てね」
用心深い野良猫を手なずけたような気分で、勇介は思わず歩の茶髪頭をくしゃくしゃと撫でた。若干身を引くそぶりを見せたものの、かわいい野良猫は勇介の手を受け入れたようで、にっこりと目を細めたのだった。




