外伝 「母―4」
午後十時を回った頃、マキ子は帰って行った。雨の中、マンション前でタクシーに乗り込むマキ子を見送ったのち、部屋に戻った歩は、緊張の糸が切れたようになって、リビングのソファに座り込んだ。
「はあ……」
漏れたため息は、気疲れだけではないものを含んでいる。
(勇さんは、あの人に育てられたってことだよな……)
以前は、マキ子の激しい気性と、顔がものすごく勇介に似ていることだけが気になった。
でも……
今日のマキ子はどこか違った。訪ねて来たときにひどく酔っぱらって素が出ていたせいかもしれないが、高圧的な物言いの中にも、どこか親しみが垣間見えたような気がする。
勇介は保護者として、また、年長者として歩と渚を気遣ってくれるが、マキ子のように「勉強しなさい」などと、どやしつけることはしない。怒鳴られるのが好きなわけではないが、ただ優しくされているだけの関係に、少し距離を感じていた部分があった。それを、マキ子は一気に超えて来た。
「それって……」
少しわかりにくいけれど、マキ子なりに関わろうとしてくれているのではないだろうか、などと、ちょっと良い方に考えてしまうのだ。
歩はもう一度大きく息を吐き、思い返す。
勉強を終えた歩を待ち構えていたかのように、マキ子は歩にあれこれと命じた。渚を風呂に入れ、自分も入るように。洗濯物があったら出しなさい。風呂から上がったら、すぐに予習をすること、などなど。
でも、ただ偉そうに命じるだけでなく、歩たちが風呂に入っている間に、マキ子は夕食を用意し、貸したスウェット上下も含めて、洗濯を済ませてくれた。その手際の良さは、さすが主婦! といった感じで、(マキ子には失礼だが)歩は北詰マキ子という人物を見誤っていたと言わざるを得なかった。何より驚いたのは、渚の扱いがものすごく上手いところだ。普段はうろつきまわって言うことを聞かない渚も、
「渚、髪を乾かさなければ風邪をひきますよ」
少し低めのトーンで言われると、借りて来た猫のようにおとなしくなる。でも、けっして怖いだけじゃなく、ちゃんと言うことがきけたらジュースを与えるなど、手練手管が抜かりない。いつの間にか渚はマキ子になついており、結局、彼女は渚を寝かしつけるまでしてくれたのだった。
シンと静まったリビングで、歩はひくひくと鼻をひくつかせた。夕食にとマキ子が作ってくれたチキンのトマトソース煮の香りに混じって、彼女自身の香水が香っている。
「お母さん……か」
白い天井に目を向け、ぽつりとつぶやく。
とうの昔に失くして、以来、すっかり忘れ果てていた感覚が押し寄せて来る。
――杏子、歩、ごはんよ。
――学校遅れるわよ、忘れ物は、無い?
――いつまで起きてるの、早く寝なさい!
日常に追われて、心の隅っこに追いやっていた記憶が、母の声となって頭の中でぐるぐるする。
(やばい……なんか、泣きそうだ)
歩は頭を一振りすると、ソファから立ち上がった。トマトソースの匂いを追うようにキッチンへ行き、コンロに置いたままの鍋をのぞき込む。赤いソースの中に、ナスやピーマン、パプリカなどの夏野菜が顔をのぞかせている。
「夏野菜、中華にするはずだったのにな」
歩は人差し指を突っ込み、指についたソースをぺろりと舐めた。甘酸っぱさと一緒に、優しくて、どこか懐かしい味が口の中いっぱいに広がる。
「ん、美味い……」
ふと流し台の隅に紙片があるのに気づき、手に取った。
『お世話かけました。勇介さんには、私が来たことは言わないでおいてください』
歩は手元の紙片をじっと見つめて首を捻る。
結局、何をしに来たのだろう?
――ちゃんときいておけばよかったな。
自分たちは、ここに居てもいいのか。杏子のことを、今でも恨みに思っているのか。そして……
今、ひとりで、寂しくはないのか、と。
「……ちゃんと、きいておけばよかったな」
つぶやきは、夜のキッチンに漂い、溶けた。
歩視点の外伝、いかがでしたか?
次回から、勇介視点で本編に戻ります。
よろしくおねがいいたします。 冴木 昴




