外伝 「母―2」
マキ子は抱き締めていた歩を突き放すと、その両肩をがしっとつかんだ。
「ねえ、勇介さんは、どこ?」
ようやくここがどこなのか気づいた様子に、歩はホッとすると同時に緊張感を覚えた。見ればマキ子の目が血走っている。
「あの、勇さんは仕事で戻りません。ほら、船の事故で、怪我人の受け入れが大変みたいで」
「そう。それで?」
――は?
「それで?」の意味がわからず戸惑う歩の肩をゆさゆさと揺さぶりながら、マキ子は焦れたように問う。
「だから、それは、どうなってるの?」
「え?」
マキ子は目をすっと細め、歩の背後の渚を指差した。渚のほうも、見知らぬ人物に興味をひかれたのかじっとマキ子を見つめたまま立ち尽くす。下半身丸出しのままで。
歩は慌てて立ち上がると、マキ子の視線から隠すようにして渚を抱き上げた。
「あの、これはですね、今、トイレトレーニング中でして、出たら教えるようにと……」
振り向いて、笑いを返す。顔がひきつったかもしれないと思いながら。
「そっか……。杏子さん、のはずないわよね」
呟くと、マキ子はゆっくり立ち上がる。しかし足元がふらつき、再びソファに座り込んだ。
「わかっているわよ。杏子さんは、いない。知ってますとも」
ぶつぶつ呟き、手元のタオルで一心に目をぬぐう。よく見えないが、たぶんタオルも顔も黒くなってるだろう。
「あの、大丈夫ですか? ちょっと待っててください。お水、持って来ますね?」
そう断りを入れ、歩は渚を抱えて逃げるようにしてキッチンへ駆け込んだ。
──どうしよう。
渚の尻を拭き、パンツをはかせながらも、そればかりが、歩の頭の中を回っていた。
(酔っ払って、俺を姉ちゃんと間違えて……)
酒の力を借りて、恨みつらみをぶちまけに来たのだろうか? 否!
初めて出会った病院や、先日の、このリビングでのことを思い返せば、北詰マキ子は酒の力など借りずとも言いたいことが言える性格だとわかっているし、正気を取り戻したのなら、それはそれで酔っ払いの相手より面倒臭そうだ。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り、リビングへ引き返すと、マキ子はさっきとは打って変わって背筋をしっかりと伸ばしてソファに座っていた。化粧崩れしたはずの顔も、ファンデーションで修復されている。
「あの、お水」
差し出されたボトルを、マキ子は無言で受け取った。沈黙が澱のように溜まってゆく。
「勇さん、今日は戻りません」
沈黙に堪えかねて歩はぽつりと言う。マキ子はゆっくりと歩の方を見た。
「しょっちゅう家を開けているのね、あの子は」
不在をとがめているのか、マキ子は険しい顔をしている。歩は何故か勇介の弁護をしなくてはいけない気になってきた。
「三日に一度くらいの割合で当直があるので、仕方がないんですよ。お医者さまは、大変ですよね」
足にかじりつく渚をよいしょと抱き上げて、歩はできるだけ穏やかな笑みを作る。相手は勇介の母親だ。それでなくても嫌われているのだから、これ以上何か揉めたら勇介にますます迷惑がかかる。
(なるべく波風をたてず、早く帰ってもらうしかないよな。肝心の勇さんがいねぇんだから)
そんな歩の気持ちをよそに、マキ子は立ち上がると睥睨するようにリビングを見渡した。その視線がダイニングテーブルの上で留まる。
「で、あなたは何をしているの?」
詰問するようなマキ子の口調に、歩は一歩あとずさって答えた。
「宿題とか、あの、勉強を……」
テーブルの上には宿題のプリントが広げられ、傍らに教科書やら参考書やらがおかれているが、けっして散らかってはいない、と、歩は目で訴える。
そのとき、おとなしく抱かれていた渚がスンと鼻を鳴らした。
「あーちゃん、じゅーしゅ」
「あ、ああ、喉が渇いたのか。じゃあ、牛乳をあげるからね」
そう言ったとたん、渚がキイーと奇声を発した。
「にゅうにゅう、いーやー! じゅーしゅ!」
腕に抱かれた体勢で、そっくり返ってジューシュとわめきまくる渚に気をとられていると、マキ子がリビングを出て行くのが見えた。
「あの、おかあ……、勇さんのお母さん、どちらへ?」
慌ててその背中に声をかけると、振り向き様にキッとにらまれた。
「長い!」
「は?」
何のことかわからず、ぽかんとする歩に、「呼び名が長い」とマキ子は言う。
「じゃあ、お母さん?」
小首を傾げながら問えば、「私はあなたの母親ではないわ」と、一蹴された。
(いったい、何の言いがかり?)
ちょっと泣きそうになったところに、思いがけず優しい声が言った。
「マキ子よ。これからは、そう呼びなさい」
ちょっと勇介さんの部屋を見せてもらうわ、と、どこまでも自分勝手に行動するマキ子の背中を見送って、歩は大きく目を見開く。
──今、「これからは」って、言った? え? それって、もしかして……?
今回の更新が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。PCの不調でデータが飛んで地獄絵図に・・・
PCは、なんとか持ち直したものの、もはや電源入れて3分も持たないでオーバーヒート。なんなんだ、これは? ウルトラマンでしょうか?(トホホ)
仕方なくタブレットにキーボードを装着して使っているのですが、使い勝手がわからない!!キーッ!
カギカッコ「 」←がワンプッシュで出ません・涙。
早く慣れるよう、がんばります。おろろん。




