外伝 「母―1」
こんにちは、冴木昴です。いつもお読み下さり、ありがとうございます!
このあたりで外伝として、歩視点の物語を何編か入れたいと思います。
勇介が居ない間、自宅マンションではちょっとした事件が起きている・・・?
勇介との通話を切った歩は、急いで玄関へ向かった。来客を告げるチャイムは、尋常で無く嫌がらせのように連打されている。
(渚が起きたらどうするんだよ)
さっき眠ったばかりの渚は、こんなに短時間で起こされたらきっと不機嫌になる。
いや、それよりも……
(悪質な訪問販売の類いだったらどうしよう!)
ドアを開けたとたんに靴の先をねじ込まれて、無理やり中に押し入られてしまうという、アレだ。
(いや待て、不審者ってことも……)
歩は傘立てから傘を一本引き抜き、そっとドアの覗き穴に顔を寄せた。
ドカン! という衝撃音が走り、鉄製の玄関ドアが振動した。
(なに? なんなの?)
覗き穴の向こうに見えたのは、なんと勇介の母親・北詰マキ子だった。
「は? なんで、勇さんのお母さん?」
間違いなく北詰マキ子だ。真っ赤なスーツを着て、黒いハンドバッグを提げているのだが、今まさに、そのハンドバッグが玄関ドアに叩きつけられた。
ドカッ!
歩の脳裏に、先日のことが蘇る。勇介と言い争いしていたマキ子は、なぜかいきなり歩の頬を平手打ちしたのだ。いまだに何故なのかよくわからない。
(気に入らないのはわかるけど、なぜあの流れで、俺にビンタ?)
開けるのをためらっていると、再び激しくチャイムが連打された。
(うわ、やめて!)
仕方なくそっと玄関ドアを開ける。
「あ、あの、勇さんのお母さん、こんにちは」
顔を出したとたんに、前髪を鷲掴みにされ、歩は目を白黒させた。
「出るのが、遅い!」
ずいっと顔を寄せられ、歩はひいっと小さな悲鳴を上げる。目を半眼にしてこちらを見据えるマキ子は、なぜかものすごく酒臭かった。
マキ子は歩を押しのけるようにして中に入ってきた。蹴ちらすようにヒールを脱ぎ、ふらつく足取りでまっすぐリビングへ入って行く。歩は慌てて後を追う。足取りからも、激しく酔っぱらっているのは明白だ。
(え、なんで? マジで、どうなってるの?)
裸足の足裏で水気を踏んで驚く。マキ子が散らした雨の雫だと思いあたり、歩は回れ右をして洗面所へ乾いたタオルを取りに行った。
タオルを手にリビングへ行くと、北詰マキ子はソファに倒れ込んでいた。
「なんか、ものすごくデジャブ……」
歩は額に手をやる。
昨夜も酔った勇介が、今のマキ子とまったく同じ体勢でソファに倒れ込んでいたのだ。
「あの、お母さん、タオル使ってください」
肩をつかんで揺すると、マキ子はむっくりと起き上がった。目の前に差し出されたタオルを受け取り、なぜか「ケイちゃん、ありがとね」と言った。歩の頭にハテナマークが飛ぶ。
(いや、俺、ケイちゃんじゃねーから。てか、ケイちゃん、誰?)
ぼんやりとした顔つきでリビングを見回しているマキ子に、歩は恐る恐る尋ねる。
「あの、ここがどこだかわかりますか?」
「えっと……杏子さん?」
「は?」
妙に可愛らしい仕草で首を傾げ、マキ子は唇の両端を吊り上げるようにして笑う。勇介とまったく同じ勘違いをした挙句に、その笑みはびっくりするぐらい勇介に瓜二つだ。いや、この場合、勇介のほうが似ているのか。
(デジャブだ! 顔も行動も言動も、酔っ払い加減も勘違い加減も! 完全にシンクロしてるよ。なんだこの母子は!)
なんとも薄気味悪い心地がして、歩は思わず後ずさる。
そのとき、リビングに面した和室の襖がカタカタ鳴ったと思うと、細く開いた隙間から渚が転がり出てきた。床に転げた渚の、その白い尻が丸出しになっている。
「あーちゃん、シーシ出た」
渚は、小便で重たくなったオムツパンツを、まるで戦利品でもあるかのように、歩の方へ恭しく述べてよこす。
「ちょ、ちょっと待って、渚。それ、ばっちいから……」
そちらに身体を向けた瞬間、今度は背後でマキ子がウッとうめき声を上げた。
「え、え、なに?」
嫌な予感に再びソファのマキ子に向き直れば、受け取ったタオルを顔に当てて肩を震わせているではないか。
(ぎゃあ! この人、もしかして吐くのか?)
その後の片付けをすぐに連想してしまい、さあっと血の気が引く。
(あっちもこっちも、ばっちいよお!)
ビニール袋かバケツを求めてオロオロしている歩の尻に、渚が思い切りタックルしてきた。
「あーちゃん!」
「うわあ!」
そのままソファのほう、マキ子の上へと倒れこむ。柔らかい感触と、香水の匂いに包まれる。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」
慌てて身を起こそうとする歩の背中を、マキ子がぎゅっと抱きしめた。
「お願い、このままで」
「え?」
マキ子の胸の辺りに顔を埋めた状態で、歩は動きを止めた。赤いスーツに包まれたマキ子の身体が震えている。歩の頭の上の方では、鼻をすする音がした。
(ひょっとして、泣いてる?)
そっと上の方を伺い見ると、マキ子は涙を流していた。マスカラが流れ落ちて、頬に黒い縦線が走っている。マキ子の視線を追うように首を巡らせると、キョトンとした顔で突っ立っている渚がいた。
マキ子が絞り出すようにして呟いた。
「杏子さんの、子ども……」