「疑惑―9」
昨夜とは打って変わって、吸いこまれそうな青い空だ。嵐の名残りといえば、路肩に打ち捨てられたビニール傘の残骸や、引きちぎられて折れた街路樹の枝葉、それらを巻き上げて、街中に吹き荒れる強い南風だろうか。
市立総合病院の駐車場に車を停めて車外に降り立ち、北詰勇介はあたりを見回す。通勤途上で見かけた光景がここにもある。風雨に散らされた桜の青葉が、濡れたアスファルトに不規則な模様を描き張り付いていた。
昨夜の自分を見るようだ、などと感傷にひたっていると、救急の入口あたりから、大きな声で名前を呼ばれた。
「先生! きーたーづーめーせんせい~!」
男性看護師の宮下がこちらに向かって手を振っている。
(なんだ? 急患か?)
勇介は一気に「医師モード」へ切り替え、呼ばれた方角に向かって走り出した。
着替えを済ませて医局に行くと、医局長の佐竹と浅川医師がテレビの前に陣取っていた。この時間、テレビを見ていること自体が珍しいので、勇介はそばへ行って声をかけた。
「あの、どうかしましたか?」
二人が同時に振り向く。佐竹の方が「北詰先生、おはようございます」と、いつもどおりに人好きのする笑みで挨拶をくれたあとで、
「そういえば、愛ちゃん……皮膚移植の患者さん、その後、容態は安定しているそうですよ。よかったですね」と教えてくれた。
(たしか、医局長は昨夜当直だったな)
外科主任の一ツ木、院外医師の黒崎、そして救命の勇介。この病院始まって以来の異色の取り合わせで行われた共同オペは問題なく成功し、患者は外科のリカバリー室で術後管理されている。患者はともかく、術後に見せたそっけない一ツ木の態度が少し気になっていたのだが、今のところ問題は無いようだ。
「あとで様子を見に行ってきます」
「そうですね、時間があればですが」
「え?」
意味深なセリフの後、佐竹はすぐにテレビへと顔を戻していた。そういえば、いつもなら何か一言ありそうな浅川も、ずっとテレビ画面に顔を向けている。勇介は彼らの背後に近付き、その肩越しにテレビを覗き込んだ。映し出されていたのは、荒れ模様の海を上空から映した画像で、画面中央に大きな船が見えた。画面右上のテロップに、『大型客船座礁、荒天で救助難航』とある。
浅川が画面を見ながら言った。
「東京湾沖だってよ。何かヤバそうだぜ。これって、うちの病院も搬送圏内だろう?」
別角度からの画像に切り替わると、大きく船が傾いでいるのがわかった。火災も発生しているようで、たなびく黒煙が見て取れる。『LIVE』の文字が点滅していることから、事態の深刻さがうかがえる。
「台風情報も気になりますよね」
勇介の脇からひょっこりと首を出し、宮下看護師が言う。彼の額がものすごく赤くなっているが、勇介は一瞥しただけで視線をテレビに戻した。
「もう、北詰先生ってば、冷たいですよぉ」とむくれる宮下は、先ほどの非礼を反省している様子が見えない。
勇介はため息をつく。さきほど駐車場で呼ばれたので、何事かと走って行けば……
(「呼んだだけですよ~」などと、ナメてるのか、こいつは)
デコピンひとつで勘弁してやったが、甘かったようだ。
――それにしても。
時期的にあまり気にしていなかったが、昨夜の悪天候はどうやら季節外れの台風が原因らしい。救助が難航している上に台風が重なれば、被害は甚大だ。
(もしかすると、今夜は泊まりになるかもしれないな)
熱っぽさの残る身体を意識しないよう、勇介はテレビから離れて担当患者のカルテを確認しはじめた。
午後になって雨が降り出した。朝のすがすがしさが嘘のように激しい風を伴い、台風の様相を呈してきた途端、救急車のコールが鳴り始めた。
降り始めのスリップによる交通事故。他人の傘が当たり顔面を負傷など、さまざまだ。例の船舶事故に関する受け入れ要請はまだ無いが、火災の範囲が広がっているとの報道から考えると、浅川の予言通りになるかもしれない。
患者の切れ目を待って、勇介は外科病棟へ向かった。リカバリー室にいる愛ちゃんの様子をじかに見るためと、それからもうひとつ。外科医として、昨日の自分のオペが一ツ木の目にどう映ったか。形成外科の専門である彼が、第二助手として勇介の執刀を直接見たのだ。当然、評価が気になる。
外科の医局に一ツ木の姿は無かった。うろうろしている勇介に、若いナースが声をかけてきたので一ツ木の所在をたずねると、リカバリー室にいると教えてくれた。
(外科主任自らが、愛ちゃんの術後管理をしてくれているのか?)
勇介の勝手な想像では、一ツ木はオペには関心を持っているが、術後ケアなどは部下や看護師に任せるタイプの医師、という印象だったのだが違ったようだ。
リカバリー室の前に立ったとき、ちょうど中から戸が開き、一ツ木が出て来た。勇介は会釈をすると声をかけた。
「お疲れさまです。昨日のオペ患、様子を見に来たのですが」
慣れぬ笑顔を作って声をかけたというのに、一ツ木はあからさまにムッとした顔をした。
「特に異状はありません。それより、術後ケアは外科に一任のはず。わざわざお見えとは、何か不安でもあるのですか?」
「え? いや、別にそういうわけでは……」
「じゃあ、なんなんですか?」
「そうおっしゃられると、特には……」
いきなりのケンカ腰に、ただただ面食らう。
「特に用事が無いのなら、ご自分の部署に戻りなさい」
ぴしゃりと言われ、勇介は後ずさる。一ツ木がリカバリーの扉を閉める際、隙間から、患者のベッドに付き添う黒崎女医の姿がちらりと見えた。
(なんだ、そういうことか)
お気に入りの黒崎と二人、仲良く愛ちゃんの面倒をみてやっているのだから邪魔するな、というところだろう。
(案外大人げ無いんだな……)
思わず漏れそうになる失笑を懸命に押し隠し、「では、よろしくお願いします」
慇懃な口調で言って、勇介は踵を返した。
救命に戻ると、例の船舶事故の患者の受入れが始まっていた。
「北詰先生、オペ室のほう、お願いします。あと数分で患者が入るそうですから」
ごま塩頭に汗を浮かべて医局長が指示を飛ばしている。
「なんか、米軍から応援が出たみたいだ。救助がペースアップしたんじゃね?」
医局長の背後から顔をのぞかせた浅川医師が近況を教えてくれた。
(こりゃ、泊まり確定だな)
手術着に着替えてきます、と断りを入れ、勇介はデスクのスマホをつかむと更衣室へ走った。昨夜から今朝まで、歩に心配をかけっぱなしだから、泊まりに突入する前に連絡を入れておこうと思いついたのだ。
――というか、連絡しようと思いついただけ、進歩だよな? 俺。
自分自身を讃えてひとりうなずく。
廊下を歩きながら「今夜は帰れません」と事務的なメールを打ち、送信した途端に着信があった。歩からだ。
廊下を走り抜け、慌てて更衣室に飛び込むと、通話ボタンを押した。
「もしもし、勇さん? ひょっとして、船の事故で忙しいの? さっきからテレビのニュースでやってるんだけど?」
ニュースを見ているということは、もう帰宅しているのだろう。それにしても……
こちらが口にする前に言われて驚くと同時に、相変わらずの察しの良さに脱帽する。
「勇さん、体は?」
「え?」
「今朝、熱があったじゃん? 大丈夫?」
間髪入れずにこちらのことをたずねる歩に、ふっと胸の中が温かくなる。
――あーちゃん、相変わらず人の心配ばかりをしているな。
「体調は、万全じゃないけど大丈夫だよ。ありがとう。天気が悪いから、明日は学校気をつけて……」
「ああそれ! 明日はね、もう休校が決まってるんだ。だから、心配しないで」
みなまで言わずとも成立する会話が小気味よい。一緒に暮らし始めてまだ数カ月だというのに、歩は、旧知の間柄のようにこちらの知りたいことや言いたいことを察してくれる。他人とかかわっているのに、こんなに楽なことはかつて無い。
――いや、他人じゃなくて、もう家族か。
今朝がたの事が脳裏によみがえる。歩だけでなく、まさか幼い渚までが気にかけてくれるとは。正直、あんなに嬉しくて温かい出来事は経験したことが無かった。
「あーちゃん、渚は?」
「昼寝してる。俺、これから宿題やるから」
「そっか。邪魔しちゃ悪いな」
「ううん、勇さんどうしたかなって、心配だったから」
「そっか」
電話の向こうに、ゆったりとした空気が流れているのが伝わってくる。
「勇さん、じゃあね。連絡ありがとう。仕事、がんばってね」
「うん、あーちゃんも……」
このほっこりとした心地よさに、もう少しひたっていたくて思わず会話を引き伸ばそうと試みるも……
ピンポーン
「あ?」
電話の向こうで玄関チャイムが鳴った。
「誰か来たみたい。じゃあね!」
あっさり言って、電話が切れた。勇介は少々物足りない気持ちでスマホをポケットにしまった。
それにしても……
こんな悪天候に、いったい誰がたずねて来たのだろう?
勇介の疑問は、救急車のサイレンにかき消されて霧散した。




