「疑惑―7」
ようやくたどり着いた我が家は、しんと静まりかえっていた。
「さすがに寝てるよな……」
ぽつりとつぶやき、勇介は注意しつつリビングのドアを押しあけた。電気のスイッチを入れ、フローリングの室内に踏み込めば、思いのほか足元がふらついており、ドア板の角に足の小指がぶつかった。「ギャン!」と短い悲鳴を上げ、そのまま呻きながらソファへと倒れ込む。
(あれ? なんか、目が回る……)
さほど飲んだわけでもないのにと、勇介は痛む足を押さえながら天井をにらんだ。
溶けそうな頭の中で、支倉の言葉が浮き沈みする。
――俺はマキ子さんが好きだ。今でもな。だけど、彼女は違った。たぶんアレだ、旦那への当てつけと、俺への同情ってやつ?
――勇介くん、キミだって悪いんだぜ。マキ子さんを一人にしたんだから。
(そんなこと、今さら言われてもなあ)
支倉の話がマキ子の真実ならば、自分の夢をあっさりあきらめるくらいには、父のことが好きだった、ということになるわけだが、でもそれは結婚当初の話ではないのか?
百歩譲って、母はずっと変わらず父を愛していたとしても、その父に頼まれたから?
だからって、父のためにわざわざ金を使い、接待なんて面倒くさいことをやるだろうか?
「いや、それは無い!」
そこんところは断言できる。
男女のことは、他人にはわからないなどとよく言うが、あれだけ派手にやりあっているのを、勇介は実際に見ているのだ。
(そのせいで、俺は人間不信になって、マトモな交際もできず友人もいなくて……)
「はあ……」
ため息をつけば、どっと疲れが押し寄せてきて、勇介はゆっくりと目を閉じた。
ふわり……
甘ったるい香りが鼻先をかすめる。キャラメルのような、ミルクのような。勇介は目を開けようと努めたが、瞼は重く、言う事を聞いてはくれない。
目が開かないのなら、きっと夢を見ているのだろう。
(ああそっか、久しぶりに女性のいる店に行ったせいかな……?)
うなじのあたりをまさぐられ、くすぐったさに首をすくめれば、誰かのつぶやきが聞こえた。
「うわ、ネクタイぐしゃぐしゃだし。濡れてるのにこんなのって、マジ、ありえない」
ぶつぶつ呟く声は、くぐもっており、ぼんやりと遠い。
(誰だろう?)
夢の中、必死に現実へ帰ろうと試みる。
肩のあたりから背中にかけて、誰かの腕が回される感触に続き、ぎゅうと抱きかかえられた。甘い芳香が間近で香る。目を閉じていても、抱擁されていることがわかる。なんだか久しぶりの感覚だ。
(夢だから、いいよね?)
まどろみの中、良い香りを放つ温もりへと甘えるように顔をすりつける。唇に触れる柔肌を吸い、ゆるく甘噛みした途端……
「ひゃんっ!」
悲鳴と一緒にビクリと震えが伝わって、勇介はハッと目を開けた。
――え?
蛍光灯の眩しい光を背に、愛らしい小顔が目の前にある。
「きょ、杏子さん?」
「は? 何寝ぼけてんだよっ!」
怒鳴り声と共に荒っぽく放り出され、勇介の身体はソファに弾んでフローリングの床に落ちた。背中の痛みで一気に覚醒すれば、ジャケットを手にした歩が仁王立ちで見下ろしている。その顔はなぜか真っ赤だ。
「誰が杏子さんだよっ! てか、勇さん、酒臭い!」
歩は首筋をおさえて勇介をにらみつけた。
「あーちゃん? あれ? その上着……」
「濡れたまま寝たらダメじゃん! 見ろ、しわくちゃだ。ズボンもひどいよ。掛けておくから早く脱いで!」
ものすごい剣幕でまくし立てられ、あっという間にパンツ一丁にさせられた時点で、ようやく状況が飲み込めた。
(あーちゃん、さっき、濡れた上着を脱がせてくれたのか。それなのに……)
首筋をおさえて赤面する歩を思い出し、勇介は頭を抱える。
「俺は、いったい何やってんだ」
よりによって歩を杏子と誤認、挙句にセクハラなど、とんでもない。
「あ、でも、逆じゃなくてよかったか?」
女性にセクハラするよりマシじゃね? などと自己弁護に走ろうとして、慌ててかぶりをふる。
首を巡らせれば、壁の時計は午前二時を回っている。
当の歩は真夜中とは思えない動きの良さで、勇介のズボンとジャケットをハンガーに吊るし、剥ぎ取ったシャツと靴下を洗濯機に放り込むと、あっという間に和室に引っ込んでしまった。
「あ、あーちゃん、待って!」
ぴしゃりと閉まった和室から、ぐずる渚の声が聞こえてきて、勇介は襖にかけた手を引っ込めた。言い訳する間も無かった。
(しかしさっきの『ひゃんっ!』って何だよ! マジで、なんかなんか……可愛いじゃないか!)
再び、頭を抱えてひとしきり懊悩。気づけば、まるで何事も無かったかのように、家全体が静まり返っている。
「シャワー浴びて寝よう」
明日も仕事だ。いや、もうすでに今日だ。
勇介は痛む頭をおさえつつ風呂場へ向かう。色んなことがあった日だったが、締めくくりがこれとは、なんとも惨めな気持ちだ。しかも、何も解決せず、ただ問題が増えただけだったのだから。




