「疑惑―6」
逆切れした母親に追い出されるかっこうで自宅を出た勇介は、駅への道を辿っていた。雨は相変わらず景気良く降っていて、母が持たせて寄越した(正確には投げつけてきた)傘は、まったく役に立っていない。半乾きだった髪も、またずぶ濡れ状態に逆戻りだ。
雨など、ただ天から降って来る水にすぎない。そうわかっていながら、流れ落ちる水分を感じるごとに、なんともみじめな思いが消えてくれない。父の不倫の汚名、自身の解雇。そして、再燃するかのように湧いた贈賄の疑惑。思い返せば、どれもこれもが勇介にとって、まるで天から降って来た災難のようだ。
(なんで俺ばかりが……?)
接待について、マキ子ははっきりとした返答をしなかったが、そこは親子だけに、様子を見れば事実か否かは手に取るようにわかった。金の出所は定かでないが、母が関わっているのは明らかだ。
みるみる顔色が悪くなったかと見た途端、マキ子は一気に逆上したのだ。
以降はもう、ひたすら「出て行け!」の一点張りで、もはや勇介には手のつけようも無い状態になった。当然、詳しいことは聞けそうにないのは明白で。
叩き出されるようにして自宅を後にしたわけだが……。とにかく、噂は(十中八九)事実だった。金はばらまかれていた、ということだ。
風雨に嬲られる深夜の住宅街。雨宿りできるような店もない上にタクシーは一台も通らない。住宅街を抜け、商店が少し固まっている区画に出たところで、ようやく一軒の小さなバーを見つけた勇介は早々に飛び込んだ。
狭い間口から続く店内にはカウンターしかない。間接照明の灯りが磨かれた天版を黒檀のように光らせている。濡れた上着を脱ぎ、滴る雫を申し訳程度にハンカチで拭っていると、奥から声をかけられ勇介は固まった。
「なんだよ、また会ったな」
L字を描くカウンターの最奥で、母親の愛人――通称・啓ちゃん――が手招きしていた。
勇介はドアの前に立ったまま逡巡する。常ならば、速攻で店を出るのだが、今夜に限っては、ようやく見つけた屋根を拒む気にはなれなかった。
カウンターの奥には「啓ちゃん」、逆側の端(つまり入口近く)にはサラリーマン風の男性客が二人座っている。勇介は仕方なく真ん中あたりに腰かけた。
「なになに? ひょっとして、ココまで歩って来たワケ?」
すかさず奥の席から「啓ちゃん」が、びしょ濡れの勇介にちょっかいを出して来た。
――コイツ、なんでいるんだよ! てか、ウザっ!
心の中で悪態をつきつつ、高さのあるスツールの下に濡れたカバンを押しこんで顔を上げると、
「水も滴るイイ男ってわけだな」
わざとらしく「へへっ」と笑う「啓ちゃん」は、なぜか勇介の隣に移動して来ていた。
近い!
(ほんの数秒で、席替えって……)
瞬間移動の妙技に気を取られているうちに、「せっかくだから、一緒に飲もうぜ」と言って、彼は勝手に勇介のぶんのウィスキーを注文してしまった。
「かんぱ〜い」と一方的にグラスを合わせて来る彼は、いまだに他人のスウェット上下を着用したままだ。眉根を寄せる勇介に頓着せず、彼はにこやかに話しかけてきた。
「こんな時間なんだから、泊まってってやればいいのに」
気さくな仕草でポンと肩に置かれた手を勇介は即座に振り払った。
「なぜ、あんたにそんな事言われなくっちゃならないんだ?」
「おー、怖っ!」と降参のポーズで両手を胸の高さに挙げたあと、勇介の不機嫌に今気づきましたとばかりに、「啓ちゃん」はへらりと笑って思いがけないことを言った。
「だってほら、もう三回入られただろ? だから、こんな日は、マキ子さんひとりで不安になるだろうなって」
「入られたって、何ですか?」
「え! 知らないの? 空巣だよ。そのうちの一回は、帰宅したマキ子さんと鉢合わせちゃって、逃げようとする犯人に、彼女ナイフで脅されてさあ……」
言葉の出ない勇介に、啓ちゃんは驚きの目を向けた。
「え、マジで聞いてないの?」
――ナイフで脅されただと? いったいそれって……
「いつのことですか?」
ようやく声を発すると、啓ちゃんはポケットからスマホを取り出して画面をスクロールさせた。
「ああ、あった。先月の末だ」
先月の末といえば、マキ子がマンションを訪ねて来た後ぐらいだ。渚のことがバレて、歩の目の前で母親と言い争いになった。そのせいで、彼が家出をして、さらに補導されて……
――なんだかなあ。
深いため息をつけば、啓ちゃんが、今度は労るような目を向けて言った。
「俺が言うのもどうかと思うけどさ、キミはもう少し家族に対して目を向けるべきなんじゃないのかな?」
確かに、「啓ちゃん」は正しい。
歩と渚、新しい家族のことで頭がいっぱいだったとはいえ、まさか母親の身にそんなことが起きていたとは。
――だから、鍵を取り替えたのか。
母からの着信があったかどうかわからない。履歴も削除してしまっているし。でも、万一着信があったにしても、時期的にも気分的にも、それに対して返答しようとは思わなかっただろう。そもそも勇介自身、「家族」という概念が薄いのだ。それは今に始まったことではない。
「勇介くんに親子の縁を切られたって、マキ子さんかなり落ち込んでたし、そっちも含めて色々心配でさ」
そんな言葉が聞こえ、勇介は、初めて目の前の「啓ちゃん」を真っ直ぐに見た。ゆるいウェーブのかかった赤茶色の髪に縁どられた顔は、良く見れば下がり過ぎの目尻と顎に蓄えたちょろい髭でもって、絶妙にバランスのとれた大人の甘さと色気が……まあ、無くもない。
「あの、母とあなたは……」
「お? やっと、俺に興味が湧いた、ってか?」
二カッと笑って、彼は勇介に名刺を差し出した。
「ずっと気になってたんだけど、勇介くんさあ、俺のこと、完全に忘れてるよね?」
差し出された名刺を、勇介は手に取った。
『株式会社クラレンス 代表取締役社長・支倉啓治』
(ああそうだ。ハセクラケイジだ。そんな名前だったな)
すっかり忘れていたのはまさに図星だから、言葉が出ない。勇介は若干支倉氏の方へ体を向けた。
「会社を経営してるんだ。服飾メーカーなんだけどね。まあ、これでも都内を中心に数十店舗、来年にはアジアに進出予定なんだよ」
自慢ですか? と言おうとして言葉を飲み込む。都内数十店舗で海外進出予定ならば、自慢しても良い業績なのではないかと思い直したのだ。
「すみません、ファッションには疎いので」
かろうじてそう応じると、支倉はなぜか楽しげに声をあげて笑った。
「マキ子さんの言う通りだね、キミの性格は。他人に対して興味なしって感じ?」
まさにその通りなので、敢えて反論はしないが、でも……
「僕のことはいいですから。それより、母はそのとき、怪我など無かったのですよね?」
「ああ。警備会社がすぐに駆けつけたから大丈夫だったようだね」
にこやかに応じる支倉氏は、第一印象よりもマトモに見えて来た。ヒモじゃないと知ったからかもしれないが。
支倉の前で自分のとった態度を思い返すと、なんとなく落ち着かない。
「あの、母のところには、よく……?」
「あっは、やっぱりそこんとこ、気になるんだね」
「いえ、そういう意味では、けっして」
勇介は手元のグラスを煽った。ひどく気まずい。
支倉はそんな勇介を見つめたあと、自分のグラスに目を落とした。
「愛人関係……だったこともある。そこは否定しない。でも、今は違う。いい機会だからね、俺とマキ子さんのこと、聞いてもらおうかな」
「え?」
改めてそう言われると、自分は聞きたくないのかもしれないと思った。なんせ、この男の語る相手役は自分の母親なのだから。
勇介の返答も聞かず、支倉は勝手に話しだす。でも、それは勇介が生まれるよりも以前の話だった。
「出会ったのは俺が七歳のとき。マキ子さんは女子大生で、ミス東京に選ばれて俺と同じモデル事務所に入って来たんだ。あ、俺はね、子供服のモデルをやってたんだよ~」
「え、母がモデル?」
――初耳だった。
「すげえ綺麗でさ、俺、めちゃくちゃ優しくしてもらって。そうそう、マキ子さんは俺の初恋ってわけ」
当時を思い出しているのか、支倉はうっとりするような目を虚空へと向けている。
「マキ子さん、トップモデルになるのが夢だって言ってて、それで当時パリに留学するって話もあったんだけど……
あれよと言う間にあんたの父親がかっさらって行っちまったってわけさ」
勇介はぼんやりと支倉の話に耳を傾ける。母親がトップモデルを夢見ていたなど、一度も聞いたことがなかった。
その後、成人した支倉と再会したが、当時母はまったく幸福な状態ではなかったという。以降は、勇介も承知していることだ。
支倉の昔語りがどのくらい続いたのかわからないが、今宵の酒はあまりよい酒とは言えなかった。バーカウンターに突っ伏した勇介に向かって支倉は「マキ子さんが心配だから」と言い置いて北詰家に引き返して行った。取り残された勇介は、バーからタクシーで自宅マンションへ帰った。




