「疑惑―5」
北詰家のリビングに、気まずい空気が満ちている。利益供与があったのか無かったのか、その話題だけでも振りづらいのに、母親の愛人と鉢合わせるなんて。
ソファに座った勇介は、出された紅茶を黙ってすする。マキ子も勇介の斜め前に腰掛けて、無言でティーカップを口に運ぶ。
窓の外で荒れ狂う初夏の嵐は、二重サッシに遮られてか細い吐息のような音を吐き出す。だが、そのか細い吐息さえも耳につくほどに、部屋の中は静まり返っていた。
勇介はチラリと母を盗み見る。マキ子は目を半眼にして背筋を伸ばし、禅僧のように座している。
――どう攻める?
まずは、こちらが優位に立てるよう、さっきの男のことを突っ込むか。それとも、単刀直入に本題へ入るか。
母は、こちらの出方をじっと待つ姿勢のようだ。
あれこれと脳内でパターンを検証した結果、
「鍵、替えたんだ?」
勇介が当たり障りのない話題から入れば、マキ子は険しい顔で見返した。
「電話をしてから来れば、開けておいたのにね」
握手をしようと歩み寄ったところへ、まさかのジャブ。
――そう来るのか!
相変わらず手ごわい母親に苦戦を予感する勇介の傍ら、マキ子はすっと立ち上がると、サイドボードの引き出しからスペアキーを取り出し、テーブルの上に置いた。キーホルダーには、じゃらりと三つの鍵がついている。
「門扉と玄関と勝手口と、全部替えたのよ。持っていなさい」
「いや、いいよ」
勇介は鍵を突き返した。あのマンションが自宅なのだから、ここの鍵など無くても問題は無い。それに……
いつからだろうか。この家が空虚な箱のような空間に取って代わったのは。
小学生のころは、まだマシだった。仮面夫婦だったとはいえ、休日には家族三人で食卓についていたと記憶している。勇介が私立の中学校に通い始めたころだった。父親が不在がちになり、一方で、母親の教育熱が加速したのは。帰宅すれば家庭教師が待っていて、夜まで勉強や習い事をさせられた。夏休みや冬休み、海外の知らない外国人宅へホームステイに行かされ辟易したことも、一度や二度じゃない。元々人と話をするのが苦手な性分だったから、苦痛だと反発したが無駄だった。教育に関して、父は何も言わなかったし、母は勇介にも父にも、反論を認めなかった。
スケジュール的に、常に家族はばらばらで、ときおり集えば母は父の浮気を責め、勇介にも当たり散らしていた。
そして、心も離れてしまった……
(あのころには、もうすでに我々は家族じゃなかったのかもしれない)
上目づかいで母親を見れば、彼女は目を上げ、勇介をじっと見返した。
「受け取らないの?」
マキ子は勇介に向かって再び鍵を押しやる。なぜか腹立たしさがこみ上げて来て、勇介は再び突き返した。
「必要ないから要らないと言ったんだが?」
「ここはあなたの家なのよ。持っていなさい」
「今はあのマンションが自宅です。それに、ここには、もう必要なものはありませんから」
そう。いまさら、ここには必要なものは何も無い。愛着も、思い出も、未練も。
「――歩と渚と暮らす。このあいだ、そう言ったわね」
マキ子は勇介を見つめたまま言った。
「え?」
唐突な言葉に、一瞬思考が追いつかなくなる。黙ったままの勇介に、マキ子は表情を殺したまま、続けた。
「俺の家族は歩と渚だけだ――あなた、そうも言ったわ。じゃあ、なぜ帰って来たの?」
――は?
「こんな時間に。迷惑なんだけど」
「なっ!」――なんだって? 「め、迷惑って……、え?」
思いもよらぬ母親のセリフに、勇介はポカンと口を開けていた。この会話の意図がわからない。
マキ子は能面のような表情のまま、淡々と言い放つ。
「家族でもないのに、迷惑だって言ったのよ。家族は彼らだけ……そう言ったのは、勇介さんでしょう?」
「そ、それは……」
頭の中はもはや真っ白だった。
何だろう、この感覚は。言葉の続きがまったく思い浮かばない。勇介はとっさに下を向き、母親から目を逸らしていた。
「『それは……』の続きは、何? 言いたいことがあるなら聞くけれど?」
低い、押し殺した母の声は、あくまでも落ちついているように聞こえる。
「早く。言いたいことがあるなら言いなさい。日付が変わってしまうわ。あなた今、余所様の家にいるのだからね。……早くしてちょうだい!」
低い声音から一変、強まった母親の語気。恐る恐る顔を上げた勇介の目に映ったのは、楽しげにニヤついているマキ子の赤い口元だった。気圧され、意図的に気持ちをくじかれたのだと気付き、勇介は歯噛みした。
――くそう! これじゃ、またこの人のペースじゃないか!
威嚇し、煙に巻いて、肝心な話をさせない。そうやってやりすごして来たのだ、この人は。だから、父はいつまでたっても、……鳴沢杏子が妊娠し、渚を産んだあとでさえ、離婚することが叶わなかったのだろう。
もう、これ以上、挑発に乗るわけにはいかない。
勇介は大きく息を吸い吐き出すと、瞳に力を込め、目の前の母に向けた。
「母さんに、聞きたいことがある」
勇介の声のトーンが変わったことに気づいたのか、マキ子はソファに座り直し、背筋を伸ばした。
「私に、聞きたいこと?」
「ああ。聞きにくいことだけど、正直に話してほしいんだ」
「待って!」
言いかけた勇介を、マキ子が遮った。勇介は条件反射のように口を閉ざしてから、しまった、と気づくが遅かった。
「啓ちゃんのことなら、さっきも言ったけれど、たまたまよ。本当に、久しぶりに……」
「いや、そうじゃなくて!」
「いいのよ、話したって。だって、彼とはもう随分前からあなたが思うような関係ではないのよ。何というか、よい友だち、みたいな関係っていうのかしら」
(ああ、まただ……)
マキ子の口が止まらなくなった。
「いやあね。お母さんだって、そんなにもう若くないのよ、ほほほ。なのに勇介さんたら、彼のこと、そんなに気にしているの?」
マキ子は上目づかいで息子を見る。
「いいえ、まったく。これっぽっちも!」
勇介は、激しくかぶりを振った。
こうなったら、もう、勝手にしゃべらせておくしかないと半ばあきらめたときだった。
「じゃあ、なに? 彼と私のことではないのなら、あなたは何が聞きたいの?」
ふいに彼女の声が低くなった。
「私のこと以外で、いったい、何が知りたいわけ? 私はあなたの母親よ? もっと気にかけるべきじゃないの?」
マキ子の眉間にたてじわが刻まれている。かつて、父と母の、ケンカまがいの言い合いを何度も目にした。これは、あきらかに逆上する前触れだろう。通常なら退散するのがベストだが、今日は、そうはいかない。
勇介はひと息に言った。
「聞きたいことはひとつ。母さんが、S大病院の准教授の妻たちに利益供与をしていた、という噂があるんだが?」
マキ子が、目を大きく見開いた。
「ただの噂なのかどうか。包み隠さず、本当のことを話して欲しい」
マキ子は凍りついたように動かない。背筋を伸ばし、ソファに浅く腰かけたまま、それでも、みるみるうちに顔色が白くなるのを勇介は絶望感に浸食されながら見ていた。




