「疑惑―4」
自宅前でタクシーを降りる。雨は風を伴って激しく吹き付けて来た。傘の無い勇介は、門扉に走り寄って手をかけた。施錠されている。まあ、防犯上当然かと思い、持っていた鍵を鍵穴に差し込もうとして顔をしかめる。鍵が差し込めない。
(……なんだこれ? 鍵、替わってるのか?)
頭から雫を滴らせて、仕方なくインターフォンを押せば、
「あん? 誰?」
返答を聞いた途端に勇介のこめかみに青筋が浮いた。気だるげな、若い男の声だ。
「貴様こそ、誰だ?」
言い返すと、プツ……と切れ、それきり何の音もしなくなった。雨音だけが、夜の住宅街に満ちている。
(……え?)
叩きつけるような雨風の中、勇介は呆然と自宅の建物を見上げる。表札は「北詰」、外観も見間違いようもない。たしかに、実家に帰るのは父の葬儀以来だが……
勇介は濡れた前髪をかきあげると、もう一度、呼び鈴を鳴らす。
ピンポーン
さらに、もう一度。もう一度。だんだんムカついて来た。
ピンポンピンポン! ピ、ピピピンポン!
「貴様、ふざけるな! 開けろ!」
頭から足の先までずぶ濡れで怒鳴り、さんざん連打し続けると、ようやく玄関内に灯りが灯った。
出て来たのは母親――北詰マキ子――だった。もう間もなく午後十時を回るかというのに、ブラウスにスカートをはき、顔には完璧に化粧がされている。彼女はずぶ濡れの勇介を一瞥し、顎をしゃくるようにして自宅に招き入れた。
「今、タオルを持ってくるから」と言い置いて姿を消したマキ子を待つ間、勇介は懸命に心を落ち着かせようとした。
母親に愛人がいることは承知していた。歳は三十代なかばくらいだったか。確か、売り出し中のファッションデザイナーだと聞いたことがある。勇介の感覚では、そういったチャラチャラした輩は、どいつもこいつもいっしょくたな印象しかない。
――ヒモ。
父が亡くなった今、そのヒモ男がこの家に転がり込んでいるのは予想できたはずだ。
(落ち着け。余計な話は、今はしなくてよい)
とにかく、接待まがいの利益供与があったのかどうか。あったとして、それが父の差し金だったか否か。ただ一点、それを確かめるのだ。
……それなのに。
リビングに入った瞬間、勇介の目がつり上がる。ソファに寝そべった男がテレビを見ていた。肩までかかる赤茶けた髪、あごにちょろりとした髭を蓄えている。
(こんなヤツだったっけか?)
母親の愛人を目にしたのは、もう何年も前のことなので、記憶が定かでないが、当時、その男はブランド物のスーツを着こなし、それなりに母好みの優男風に見えたのだが。
勇介は、リビングの入口につっ立ったまま、男をじっと見すえる。そいつが着ているスウェット上下に見覚えがあった。
(……俺のだ)
バラエティ番組から、下品な笑い声が絶えず聞こえてくる。声をかけようとしてためらう。相手の名前すらも思い出せない。もはや末期だ。
(まあいい。そんなことは、どーでも)
開き直ると、勇介は男に向かって言い放った。
「おい、悪いが、出てってくれないか」
そこで、ようやく男が勇介のほうへと顔を向けた。へらりと笑い、
「おかえり~、久しぶりだね」
と、まったく動じない態度に再びふつふつと怒りがこみ上げる。
(落ち着け――俺!)
ぎゅっと両の拳を握りしめるこちらの怒りに気づいているのかいないのか、男はソファに座り直すとにこやかに言う。
「勇介くん、だったよね? 出来の良いイケメン外科医。マキ子さん自慢の一人息子さま」
面と向かって言われると、嫌味にしか聞こえない。冷たい目を向ける勇介を見て、男は真顔になった。
「あのさ、いきなり帰ってきて、出て行けはないんじゃないのかな。……でしょ?」
「――は?」コイツ、何を言っているのだ?
……と、思う反面、相手はこちらの顔も名前も覚えていたという事実に、なぜか負けた気がして、少々悔しいような気持ちになる。
言うだけ言って、男は勇介に興味をなくしたようにテレビのほうを向いた。
「おい、あんた!」
男のほうへ一歩踏み出した途端、パッとテレビが消えた。
男と勇介、二人が振り向くと、マキ子が腕組みして立っていた。手にはリモコンが握られている。
「あれ、マキ子さん。消しちゃうの?」
のっそりと起き上った男に向かって、マキ子は一瞥をくれた。
「啓ちゃん、悪いけど、席を外してくれないかしら?」
――啓ちゃんって……
勇介は虚ろな目で母と男を交互に見やる。
男は勇介の顔をじっと見返してから、再びへらりとした笑みを見せた。
「はいはいっと。マキ子さんが言うなら仕方ないね」
男は素直に立ち上がると、勇介の横を通り越してリビングを出て行く。その背中を見送っていたが、彼が階段を上がってゆこうとするのに気付き、勇介は声を上げた。
「おい! どこへ行くんだ!」
「二階」
しれっとして言う。客間は一階だ。二階には、勇介の部屋と父の書斎、それに北詰夫妻の使っていた寝室しかない。勇介は思わずマキ子の顔を凝視した。
マキ子はふうとひとつため息をついてから、男に向かって声をかけた。
「悪いわね。帰ってくれる?」
母の、少し媚びたような声色に、嫌悪感が湧く。勇介は濡れた上着をソファの背にかけると、二人から顔をそむけるようにして窓辺に移動した。ざわざわと揺れる庭木。その向こうに立つ街路灯が、斜めに吹きつける雨の軌跡を照らし出している。
勇介の背中にマキ子が言った。
「電話一本入れてから来るものじゃないの? 常識知らずは、相変わらずね」
勇介はキッと振り向く。
「父さんが亡くなってまだ四ヶ月ほどだというのに。……常識知らずは、どちらですか?」
マキ子は急に表情の無い顔になった。
「今日は、たまたまよ。私は、赤の他人と暮らしたりしないわ。あなたたち父子と一緒にしないでちょうだい。……若い女を囲ったり、捨て猫みたいな子どもらを拾ったり、そんなこと、断じてしないわ」
――す、捨て猫?
あまりの言われように、言葉が出ない。
シンとなったリビングの外で、男――啓ちゃん――が玄関扉から出て行く音が、大きく聞こえた。




