「疑惑―3」
差し向かいでグラスを傾ける。沢木はなかなか本題に入らなかった。急かすのも悪いし、黙って飲んでいるのも居心地が悪い。仕方がないから、勇介は今日執刀した皮膚移植の話をすることにした。
「ほう、幼児の皮膚移植か。救命の医師がそんなオペまでやるのかよ」と、意外にも沢木は食いついてくる。S大病院ならば、おそらく形成外科か小児科のテリトリーだ。
「いろいろありましてね。でも、今回は勉強になりましたよ」
気持ちにウソは無いからか、自分でも驚くほど素直に言葉が出る。沢木は「はあああ」と、なぜか盛大にため息をついた。
「北詰、おまえ、つまらんやつになったなあ」
「は? どういう意味ですか?」
沢木はゆるゆるとかぶりを振る。
「……ったく、まいったな」
「え?」
「おまえが昔と同じに、ツンケンした、他人なんて関係ないぜって感じの、嫌な奴のままだったらよかったのに」
勇介は苦笑いした。ひどい言われようだ。
沢木は勇介の背後に向かって手を振った。振り向くと、着物姿の綺麗な中年女性がおり、二人に向かって会釈をした。
「ママさん、忙しいところ、すみませんね」
沢木が人好きのする笑みを浮かべて呼ぶ。中年女性は二人のいる席につくと勇介に名刺を差し出した。
「このクラブのオーナー、環です」
近くで見ても、ママはものすごい美人だった。ほっそりとした首筋から、アップにしたうなじのあたりがとても色っぽい。笑うと少女のように見えるのは、八重歯のせいかもしれない。どう見ても三十代に見えるのだが、これだけのクラブを経営しているところを見ると、おそらくもっと上だろうと思われる。
「北詰は、実は熟女趣味だったのか?」
ママさんに見とれているのを指摘され、思わずうつむいてしまう。ひとしきり軽口などで和んだのち、沢木が声のトーンを落とした。
「で、親父さんの件だが、はっきりとは掴めていない。だが、白……ではない」
勇介は詰めていた息を小さく吐き出す。
沢木がちらりと目くばせすると、ママが、
「三年くらい前かしら、第一外科のえらい方たちが……」あの、お名前は伏せますね、と前置きしてから話し始めた。
内容は、「第一外科のえらい方たち」が酒の席で話していたことで、彼ら本人ではなく、彼らの妻たちが、とある人物から接待――つまりは利益供与――を受けていた、というものだった。
「証拠はありません」と宣言したのち、ママは声をひそめる。接待は、エステ、ファッションショー、食事など、形に残らないもので、金額にしても一人当たりの額は一回につき五万から十万程度といったところだと、証拠がないというわりには、けっこう詳しかった。
「わかりました。それで、肝心の『とある人物』というのは?」
尋ねる勇介をじっと見てから、ママは沢木へと顔を向ける。二人のアイコンタクトが終わると、沢木が口を開いた。
「その人物は――北詰マキ子。お前の母親だと思うが、違うか?」
勇介は愕然となった。なぜ、母が息子の上司……の妻を接待するのか。意味がわからない。
ママさんがフォローするようにして勇介の隣に座った。
「あのね、ほら、たとえば仲の良い者同士なんかだと、おごったりおごられたりって、あるでしょう? 私だって、お店の女の子にごちそうすることもあるし、慰安旅行のときにゴルフのプレイフィーを払ってあげたことだってあるわ。女性同士、無くもないわけで。……だから、ね?」
すっかり血の気が引いているのが自覚できた。そんな勇介の顔を、哀れみとも何とも言いようのない表情で見て、沢木が言った。
「人のつながりなんて、どこでどうなってるのかわからんが……少なくとも俺の母親と、准教授の奥さんたちに接点は無い」
確かに沢木の言うとおりだ。勇介にしても、自分の母親が准教授の妻たちと、ママさんの言うような友だち関係を築いているなど、あり得ない。
「とにかく自分で確かめてみろよ。親子なんだから。じゃないと……」
その先のセリフは容易に想像できた。
――じゃないと、父親(SK製薬営業部長)が母親を使ってやらせたことにされるぞ。
ママさんは労わるように勇介の肩を抱きしめると、無言のままに席を立った。上品な白檀の残り香が、ほんの少しだけ、気持ちを落ち着かせてくれた。
「沢木さん、ひとつだけ、いいかな?」
「なんだ?」
「こういう店の女性たちって、普通、お客の情報を秘匿する義務があると思うんだけど?」
酔った上での大事な話をいちいち他人に漏らしていたら、利用客などいなくなってしまう。すると、沢木は勇介の耳元に顔を寄せ、
「俺は特別だからな」と笑ったあと、付け加えた。
「以前に大動脈瘤切除の公開オペがあったろう? あのときの患者、ママさんのこれだったんだよ」
そう言って、沢木は親指を立てた。
S大病院に初めて沢木をたずねたときのことだと思いだした。
「俺はママの大事な人の命を救ったってわけ。だから、特別なんだってさ」
どうやら、沢木以上にママさんが骨を折ってくれたらしい。
勇介はもう一度、二人に礼をのべてから店を後にした。
雨の繁華街で、ようやく捕まえたタクシーに乗り込み、勇介はシートに深く身を沈めた。車窓に滲むネオンを横目に、ぐるぐると考えを巡らせる。
先ほどの話は事実なのか。事実であれば、母はなぜそんなことをしたのか。大多数の人間が考えるように、「第一外科のえらい方たち」に取り入る目的で、父にやらされたのか、否か。
予期せぬ展開に戸惑っても、落ち込んでいる場合じゃない。
――とにかく、母親に会わなければ。
ポケットのスマホが震えて、メールの受信を知らせる。見ると歩からだった。
『もしかして、今日、泊りだった?』
時刻を確認すると、午後九時を回っていた。また夕飯の断りを入れ忘れたことに気づく。
(ごめん、あーちゃん)
心の中で謝りながら、勇介は返信した。
『連絡遅れてごめんね。泊りじゃないよ。でも、晩ご飯は済ませたから』
『了解』
簡単なやりとりのあと、ポケットにしまおうとしたスマホが再び震えた。画面を見て目を見開く。歩からの着信だ。
「もしもし、勇さん?」
「あーちゃん、どうかした?」
応答すれば、一拍ほど置いて、
「雨、ひどいね。傘、持ってないでしょう? 俺、駅まで迎えに行こうか?」
と、返ってきた。相変わらず人の心配ばかりしている歩。申し訳なく思うと同時に、なぜかほっこりとしてしまう。
「ありがとう、でも大丈夫だから。それに、これから一件寄らなくちゃいけないところがあるんだ」
「そ、そっか。わかった」
「渚は寝たの?」
「うん。さっき寝た」
「遅くなると思うから、あーちゃんも寝て」
「うん。……じゃあね」
「おやすみ」の言葉を最後に通話を終えると、高ぶっていた気持ちがすっかり凪いでいた。心が日常を取り戻し、頭もすっきりしたように感じられる。久々の歩マジックが発動したのかもしれないと、勇介は口元に笑みを浮かべた。
(やっぱり、俺にはあーちゃんが必要だ)
大事な家族を守るためにも、疑惑をはっきりさせなくてはいけない。事実を知り、備え、対処するのだ。
――しっかりしろ! 北詰勇介!
自分で自分を叱咤し、勇介は母親との全面対決に臨むべく、気合いを入れたのだった。