「疑惑―2」
沢木に指定された場所は、S大病院ではなかった。勇介はタクシーを降りると店の看板を見上げた。少し前に降り始めた雨が、頭上でぎらつく金やピンクのネオンをにじませる。
『クラブエレガント』
第一外科の医師たちが良く利用する店だが、勇介は新米医師の頃に一度来ただけだった。たった一度きりの来店にもかかわらず、その時のことは鮮明に覚えている。
(嫌な記憶ほど残るものだからな)
キャバクラとは一線を画す落ちついた店内は、煌びやかなドレスとアクセサリーで飾り立てた女性たちで溢れていて、ひと目で高級クラブとわかる雰囲気だった。女性たちはみな美しくモデル並みのプロポーションであるばかりか、立ち居振る舞いも洗練されていた。だが、その教育された女性たちが、贔屓の准教授や先輩医師そっちのけで勇介に群がったため、場の空気が最悪になったのだ。今にして思えば、勇介の足を引っ張りたいヤツが仕掛けたことだと察しがつく。だが当時は、病院の外にまで罠があるとは思ってもみなかった。
「おかげで俺はまたまた変に恨みを買って、言われもないイジメまがいの敵意にさらされたんだっけ……」
ため息をつきつつ扉の前に立つと、黒服がすっと開けてくれた。
香水と酒と煙草の入り混じった空気が、笑いや喧騒と共にあふれ出す。もうずいぶん長いこと女性の居る店になど行っていないなと思う。案内されるままに中へ踏み入ると、最奥のボックス席に座った沢木が見えた。黒服が連れの来店を伝えたようで、彼はこちらを振り向くとひらひらと手を振って寄越した。遠目にも機嫌が良さそうに見える。
「沢木さん、お待たせしました」
席に着くなり低姿勢に頭を下げると、沢木はさらに上機嫌な笑みを向けて来た。良く見ると、けっこう飲んでいる様子だ。レミーマルタンのボトルが一本、空になっている。彼は両隣りに若い女性を侍らせていたが、彼女たちが勇介の容姿を褒めた途端に「もう、ここはよいから」と追い払ってしまった。
女性たちがさがると、妙な沈黙が漂った。
「あの……」
勇介が伺うように声を出すと、沢木はけらけらと笑った。
「さっきのグラマーなほうの娘ね、マリアちゃん。俺の贔屓だから」
「はあ……」
どっちがグラマーだったかなんて、見る暇も無く追い払っておきながら、何を言い出すのかと、勇介は眉根を寄せる。沢木は前髪をかきあげると、鋭い流し目で勇介を見た。
「北詰、彼女がお前に靡くと困るんだよ」
「は?」
「前科があるだろうが」
そう言って、沢木はニヤリと笑う。
ああ、あのときのことを言っているのかと合点がいく。それにしても、よく昔のことを覚えているものだ。
沢木はニヤニヤ笑いのまま言った。
「実はあれ、菅野先輩たちが仕組んだことだったんだぜ。知ってたか?」
「いいえ」
勇介は黙ってかぶりをふる。半分嘘で半分本当だから。
罠だということには、ずっと後に気づいた。けれど、その当時、第一外科に菅野という先輩がいたかどうかが、まったく思い出せないのだ。
「やっぱな~」と、沢木は鼻白んだように肩をすくめる。
「北詰、当時のおまえ、全然周りに興味無かったもんな」
そう言って、沢木は話してくれた。当時、菅野という先輩が、第一外科・香川教授チームに入る予定だったこと。それが、香川教授が勇介を入れると宣言したため流れたこと。要するに、逆恨みだ。
「でもまあ、あのときの、エレガント事件(そのように呼ばれているらしい)自体は面白かったな。マジでお前に惚れた女も居たらしいじゃないか」
「そうかもしれませんね。職場に何度も訪ねて来た女性が居たような、居なかったような」
早く本題に入りたい勇介が適当に相槌を打った途端、沢木の顔が引きつった。急にちらちらと背後を気にし始めた彼の視線を追えば、背中の大きく開いた、赤いドレスの女性が見えた。たぶん、あれがマリアちゃんなのだろう。すると、ふいにこちらを向いた彼女とバッチリ目が合った。とたんに、彼女がはにかんだような笑顔を浮かべる。
「だから、手を出すなと言ってるだろっ!」
不機嫌な沢木の声が飛んでくる。
べつに、手を出してなどいない……という文句の言葉を飲み込む代りに、勇介は沢木に向き直った。
「安心してください、沢木さん。市民病院の給料じゃ、こんなところ、めったに来れませんから」
自嘲気味に言って、作り笑顔を向ければ、沢木は毒気を抜かれたようにポカンと口を開けた。
そうなのだ。
こんなところに来る金があるなら、歩のために学費を貯めておいてやらねばならないし、渚の分だってある。
「おまえ、本当に変わったな」
しみじみ言われ、勇介は今度は本物の笑みを向けるのだった。
GWなので、ちょっと書く時間がとれました。
なので、少し早目ですが、続きをお届けすることができました。
再開にあたって、活動報告やご感想欄にコメントをいただき、とてもはげみになっています。ありがとうございます。 冴木 昴