第五章 「疑惑―1」
長い間休載していましたが、再開することになりました。
完結に向けて少しずつ更新していこうと思います。
不定期更新ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。
冴木 昴
市立総合病院のオペ室内はピリピリとした空気が充満していた。外科と救命の協同プロジェクトと銘打った皮膚移植手術が行われるのだ。
執刀医は救命の北詰勇介、前立ちにつく第一助手は黒崎クリニックの医師・黒崎イツ子、そして第二助手に外科の一ツ木主任という、この病院にしては異色の取り合わせだ。
麻酔によって眠らされた患者が手術台に横たわっている。その身体はまるで猫のように小さい。一歳に満たない幼児の皮膚移植は、大人のそれとは比較にならないほど難しいと言われている。使える麻酔の量も限られてくるから、正確、且つ迅速な処置が求められる。
勇介は大きく深呼吸し、メスを手に取った。前に立つ黒崎をちらりと見る。彼女の視線は勇介の手元に注がれていた。緊張のために、彼女の顔色は青ざめて見える。
勇介の肩から、逆にふっと力が抜けた。
やるだけやったのだ。あとは集中し、持てる技術をすべて注ぎ込むしかない。
この幼児――愛ちゃん――が運び込まれてからずっと容態を見守ってきた。成長著しい幼児の今後に支障がでないよう、頸部や脇などの関節部分の堅くなった皮膚を何とかしなければならないと判断した結果、勇介は皮膚移植を提案し、保護者はそれに同意した。だが、本来皮膚移植は形成外科の担当である。そして、外科の一ツ木主任は形成外科の専門だ。だが、いろいろあり、愛ちゃんの両親は皮膚移植に関しても、最初に関わり信頼できる医師であるとして、勇介に執刀して欲しいと希望してきた。勇介は黒崎のアドバイスを仰ぎ、患者が小児科に移されてからも、主治医のひとりとして関わってきたのだった。
単なる救命の一医師が、外科主任であり形成外科専門の一ツ木を差し置いての皮膚移植。これを完璧に行わなければ、一ツ木は己のプライドにかけて、きっと勇介を糾弾するだろう。だが、そんなことは、患者になんの関係もない。
「黒崎先生も、深呼吸してください」
黒崎が顔を上げる。目が合う。勇介が笑って見せると、逆に黒崎は目をつり上げた。
「何笑ってんのよ! 少しは緊張しなさい」
小声で文句が来た。
(いつもの黒崎先生だな)
勇介はマスクの下で微苦笑しながらうなずくと、流れるような手つきで患部にメスを入れた。
始まってしまえば、剥離と縫合の繰り返しで、手順的には難しく無い。術部は火傷が表皮の下深くにまで及んでいるため、剥離は深めにとってよい。そこへ綺麗な皮膚をかぶせてゆくのだが、今回は、患者自身の皮膚を採取し、それを移植するやり方なので、感染症のリスクも少ないだろうと思われる。
――火傷あとだと細菌が入りやすいし、出血とかもしやすいからね。普通の皮膚移植よりは術後管理がたいへんかも。あと、テクニックの面ではね、かぶせる皮膚を少なくするために、患部を剥離後、どれだけうまく周囲の皮膚を寄せられるか、だわね。
術前のカンファレンスで黒崎が言っていたことを思い出しつつ、勇介は淡々と手を動かす。
手元に視線を感じる。
前立の黒崎ではなく、斜め後ろにいる一ツ木の視線。それは、勇介にとって、とてもよい緊張感を与えていた。
手術は無事に終わった。
「お疲れさま。さすがね。早いし、縫合もきれいだったわよ」
黒崎に背中を叩かれ、勇介は軽く会釈をする。彼女の背後に、オペ室を出てゆく一ツ木の背中が見えた。
「一ツ木主任、お疲れさまでした」
あえて大きめの声で挨拶をしてみたが、彼は肩ごしに振り向いただけだった。
――まあいい。無視されなかっただけでもよしとしよう。
こういったポジティブな切り替えは、S大病院時代の経験が生きているなと思い当たり、勇介は自分自身に苦笑した。
看護師に術後の投薬を指示し、患者の家族に説明を終えたのち、ようやく医局に戻った勇介は、スマホにS大病院沢木からのメールを見つけた。彼には、父に関する献金疑惑について調べてもらうよう頼んである。何かわかったのだろう、「話があるから、今日、会いに来い」と、沢木らしい高飛車なメッセージだった。勇介は煙草とスマホをつかむと、屋上への階段を上って行った。
鉄扉を押し開けると、ものすごい風が吹き込んできて、白衣の裾がはためいた。時刻は午後二時を回ったばかりなのに、まるで夕方のように暗い。見上げれば、空一面に広がる分厚い黒雲が、濁流のように流れてゆく。
(一雨来そうだな……)
七月に入っても、まだ梅雨明け宣言は出されていない。湿気を含んだ強風は、不規則な方向から吹いてきて、まるで台風を思わせる。
勇介は乱れる髪を気にしながら屋上に出ると、風よけ代わりに大きな室外機のそばへ身を寄せた。
スマホを取り出し、沢木へOKの連絡を入れると、すぐに待ち合わせ場所と時間の返信が来た。
献金疑惑。
父が白なのか黒なのか。どちらにしても、現上司である佐竹医局長と桂医院長にはきちんと話をするべきだろう。一ツ木からあらぬリークをされる前に、自分の口で言うべきなのだ。
スマホをポケットにしまい、入れ替わりに煙草を取り出す。火をつけて大きく吸い込み吐き出せば、紫煙は風に吹き散らされ飛んで行った。




