「過去の亡霊―2」
前回のラストシーン
救命センターの廊下でひとり泣いている男の子を見つけた勇介は、行き掛かり上男の子をなだめるために何かよさそうな話をしてやろうとするのだが・・・
「ああ、そうね、お話か。……おばけの話ならあるけど」
「おばけ? ぼく、聞きたい」
男の子は以外にも食いついてきた。
(そんなんで、いいのかよ……)
勇介はコホンとひとつ咳払いをして話し始めた。
「この病院の、とある病室で、立て続けに入院患者が亡くなることがあってね……」
当直の看護師たちが嫌がるので、たまたまそこにいた若い研修医にお鉢が回ってきた。彼は夜中の見回りに出た。そこは、突き当たりの四人部屋なのだが、なんとなく患者を入れてはいけないような雰囲気になっており、昨日までは無人だった。しかし、昼間女性の急患が入り、その部屋に入れなければならなくなったのだった。
非常灯の薄青い光が廊下に等間隔で光を投げている。真夜中の病棟は、彼の靴音以外しわぶきひとつ聞こえてこない。懐中電灯とカルテを持って、はるか廊下の先、真正面に見える扉に向かって歩く。
「なんだ?」
研修医は思わず立ち止った。例の病室に近づくにつれて、急速に周囲の温度が下がった気がした。暖房が止まっているのか、いや、そんなもんじゃない。真冬だというのに、冷房が入っているような寒さだ。
自身の体を抱くようにして病室に足を踏み入れると、かすかな声が聞こえた。女の声だ。動きを止め、耳を澄ます。
「……この口が言ったか。そうかい。じゃあ、ふさいでしまおう。……こうしてね」
ピチョン……と、水の滴る音がする。
ハッとして、研修医は懐中電灯をつけた。消灯された部屋の中が、丸い灯りに照らし出される。――そのときだった。
四つのベッドのうちひとつだけ、ぐるりと引かれた白いカーテン。その内側を、誰かが移動する気配がある。入院患者は大腿部を骨折しており、ベッドに固定されているから、万に一つも立ちあがれるはずはなかった。
(いったい、誰?)
そっとカーテンをめくる。どっと冷気があふれ出す。ライトの光に照らし出されたモノを見て、彼は思わず息をのむ。
「そこには見たことも無い老婆がいてね、洗面器に浸した薄紙を、一枚、もう一枚って、患者の顔に……」
「い、いやあああああ!」
涙声で叫んで、男の子が耳をふさぐ。勇介が「しまった」と思ったとき――
「おいおい、子どもになんて悪趣味な話を聞かせるんだ?」
振り向くと、あきれ顔の沢木が立っている。
「こ、これは、退屈しのぎに何か話をと……」
しどろもどろになりながら男の子に目を戻せば、顔面蒼白で口元を震わせている。
「あ、ごめん。そんな顔しないで……」
「怖いよう!」
男の子は盛大に泣き始めた。勇介がおろおろしているそばでは、沢木がニヤニヤと笑っている。彼はにやつきながら言った。
「……にしても、怪談はないだろ」
「あいにく、子どもに聞かせるような気の利いたネタは、持ち合わせていないんだ」
勇介はポケットからハンカチを取り出し、それで男の子の涙をそっと拭った。
「じゃあ、話なんかしなきゃいい」
「まあ、それはそうなんだが……」
眉間にしわを寄せる勇介を、沢木が興味深い眼差しで見ていた。
3人でしばらく待っていると、オペ室から男性が出て来た。男の子が大きな声で「パパ」と呼んで駆けよって行ったので、勇介たちは救命を離れた。
「母親が急に産気づいたらしい。分娩異常で産科の医師が呼ばれて、けっこう大変みたいだな」
廊下の途中で、沢木が救命の看護師を呼びとめて情報を仕入れてきた。お産は母子両方の命に関わることだから、救命医だけでは判断できないことが多いのだ。
「それで、父親も中に呼ばれていたのか」
ひとりぼっちの男の子を放っておけなかったのだと言うと、沢木は意外そうな顔をした。
「北詰、おまえ、なんか雰囲気変わったな」
「え?」
どのように変わったのか。
聞くのが怖いような照れくさいような。そんな勇介の気持ちに気づいたのか、沢木は言った。
「いや。以前のお前なら、仕事以外で他人の世話なんかしなかったろ。ましてや、子どもなんか……」
「うう……」
勇介は思わずうめく。確かに、この病院に勤務していたときには、周囲のことなど気にしていなかった。
今ならよくわかる。
当時は自分のことに精一杯だったのだ、と言えば聞こえは良いが、それは見方を変えれば自分のことだけしか考えていなかったということだ。歩と出会って、たぶん変わったのだろう。彼の、人を気遣う細やかな気持ちを心地よく思い、自分もそうありたいと思うようになった、その結果だ。
(でも、今回は完全に失敗だったがな……)
心の中で、勇介は苦笑した。
お読みくださいまして、ありがとうございます。
予定ですが、毎週水曜日の7時に更新していこうと考えておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
冴木 昴