「過去の亡霊―9」
勇介母子の争いに、突然飛び込んできた歩。
それを見たマキ子は・・・
歩は小走りで部屋を横切り、勇介の腕にしがみついた。目に涙を浮かべている。
「勇さんダメだ! お母さんにそんな事、言っちゃダメだ!」
「あーちゃん」
間が悪すぎる。勇介は歩をかばうように、その体を自分の背後へと押しやる。母を見れば、さっきまでの余裕の笑みはどこかへ消え失せていた。
「この子が、あなたの言う『家族』ってわけ?」
「そうだ」
「あなたを産んだ母でなく、この子が?」
「ああ、そうだよ!」
「ちょっと勇さん、何を言って……」
歩が勇介の背中をたたく。勇介は歩のほうに向きなおるときっぱり言った。
「いいんだ。あーちゃんは何も心配するな。いずれこのヒトとは話しあわなくちゃいけないと思っていたんだよ。だから……」
「勇さん、『このヒト』なんて、どうしてそんな言い方するの?」
歩の声が泣いているようにかすれ、勇介は口をつぐむ。
「そんな言い方、お母さんが悲しむよ」
そう言ってから、歩は下を向いた。勇介はそっと歩の茶髪頭に手をのせた。
人前で揉めたくはないが、このまま大人しく母の言い分を聞くわけにはいかない。歩の髪に指を滑らせていた勇介は、ふと異様な静けさを感じた。テレビの音が、やけに耳につき、勇介は振り向く。
北詰マキ子は奇妙な静寂をまとってそこに立っていた。さっきまでの興奮も乱れもなく、静かに勇介と、その肩の先にいる歩をじっと見つめる。そして、ぼそりと言った。
「似てるわ」
「え?」
勇介と歩が同時に反応した。
マキ子の目が歩をとらえたまますっと細められる。
「気味が悪いほど、あの女にそっくり……」
歩が息をのむ音が聞こえ、勇介はとっさに母と歩の間に体をずらして壁を作った。――が、遅かった。
「あの女、……鳴沢杏子」
「母さんやめろ! 杏子さんのことは、もう」
言った勇介自身が当惑していた。自分でも信じられないくらいの大声が出てしまった。
「あ、あ、ふえっ、ふえっ……」
渚がびっくりしてぐずり始め、勇介は我に返った。背中に、歩の乱れ始めた息づかいを感じる。
そのとき、マキ子が大きく前に踏み出した。勇介はとっさに足元の渚を引き寄せて身構えたが、マキ子はつかつか歩み寄り、勇介の脇を一気に素通りした。
ハッとして振り返ったときだった。
パシッ!
渇いた音がリビングの空気を揺らす。
「何が『お母さんが悲しむ』よ! 知った風な口、利かないでちょうだい!」
マキ子の罵声が響き、勇介の目に信じられない光景が飛び込んできた。
歩とマキ子が向き合っており、歩は左の頬を押さえている。歩の目は大きく見開かれていた。
「なんで……」
歩ではなく、勇介の口から声が漏れ出た。マキ子は歩を睨みつけたまま、甲高い声を上げた。
「早く出て行きなさい! さあ、早く!」
歩は頬を押さえたままでよろりと後ずさる。勇介はマキ子の袖を思い切り引いた。よろめく母に向かって低い声で言う。
「出て行くのはあんただよ。勝手なことばかり。もうたくさんだ!」
勇介は頬に当てられた歩の手を外した。なめらかな肌が赤く腫れ始めている。そっと触れると熱を持っているのがわかった。
「あ……俺は、だいじょぶ……」
勇介の手をやんわりと払い、消え入るような声で言って、歩はうつむいた。
「なぜ叩いた? あーちゃんに謝れ」
振り向きざまに言うと、マキ子は逆に怒鳴り返してきた。
「謝らないわよ! なんで私が! あんたたちこそ、ふざけるのもいい加減にしなさいよ。なにが『あーちゃん』よ。あの女と同じ顔して、あの女みたいに勝手に人の家庭に踏み込んで……」
言いながら、何かを思いついたようにマキ子は歩の顔をじっと見つめる。
「だから、この子を手元に置いているのね?」
「え?」
マキ子は何度も頷きながらしたり顔で言う。
「まったく……血は争えないわね。勇介さん、あなた鳴沢杏子さんとは、面識があったわよね?」
マキ子の目が歩の顔から勇介へと移る。何もかも見透かしたような母の目が勇介を射た。
「なにをわけのわからないことを」
勇介は、逸らすまいと決めたにもかかわらず、気がつけば目を伏せていた。
「やっぱりね」
マキ子が鼻先で笑う。
「勇さん? どういうこと?」
歩がおずおずと口を開く。
「あなたまで、あの女の色香にたぶらかされていたわけね。まったく、親子そろってあきれるわ」
決めつけるように言って、北詰マキ子は高らかに笑った。
「あ、あんた、頭おかしいんじゃないか?」
「あら、そうかしら?」
「出ていけ!」
腹立ちまぎれに勇介は怒鳴った。
「ええ、出て行きますとも。勇介さん、あなたが、こんなにも愚かだとは思わなかったわ」
「なんだとお?」
母に掴みかかろうとした勇介の体は、歩によって押しとどめられた。
「勇さん、もうやめてよ!」
勇介の腰にまわった歩の両腕に力がこもる。
「手を下ろしてよ。お母さんをどうする気なの? 殴る気? やめなよ、……ふたりは親子でしょう?」
勇介と歩がもつれている間に、北詰マキ子は椅子の背にかけていた光沢のあるハンドバッグをひっつかむと、二人に背を向けた。リビングの出口に向かって歩きながら、聞こえる声で悪態をつく。
「まったく、あなたには失望したわ。手塩にかけて育てたのに。これまでに、いくらお金をかけたと思っているのよ? ホントに、ばかばかしいったらないわね」
母の言葉を聞きながら、勇介は怒りに震えていた。母にではなく、母の挑発に乗ってしまった自分が情けない。こちらの性格を知り尽くしている母親に対して、冷静さを欠いたら終わりではないか。
玄関のドアが荒っぽい音を立てて閉められた。
しばらくの間、その場につっ立ったまま放心していた勇介は、右手にひやりとしたものが押しつけられて我に返った。歩が勇介の右手をとり、濡れたタオルを押しあてていた。
「赤くなってる。医者なんだから、大事な右手、粗末にしちゃダメじゃん」
そう言って、歩はふわりと微笑んだ。さっきテーブルを叩いたときに傷めたのだろう。だが、目を向ければ歩の左頬のほうがよっぽど赤い。
「あーちゃん、ごめん」
勇介は歩をソファに座らせると右手のタオルをとって彼の頬に押しあてた。
「俺は平気だから。てゆうか、お母さんのおかげで発作が治まったみたいだし」
「え?」
「叩かれたら、息苦しいのがなくなったんだよ」
ひょっとしたら、わざと叩いてくれたのかもね、などと、歩はいたずらっぽい顔で肩をすくめる。
そんなわけないだろ、と言いたいのを、勇介は飲み込んだ。誰の悪口も言いたくない、人を信じたい、そんな歩らしい言い方に、切ないものがこみ上げてくる。
渚がお腹をすかせたようにキッチンとリビングを往復しはじめたので、歩はさっと立ちあがった。
「すぐに晩御飯作るから、勇さんは渚をお風呂に入れてやってくれる?」
いつもと変わらぬ調子で言って、歩はキッチンに向かう。その背中を見つめながら、勇介は深い後悔に囚われていた。
自分と母の醜い言い争いを、歩はどんな気持ちで聞いていたのだろうかと。
なんだか疲れた~
勇介ママ、ひっかきまわして退場。さて、これで落ち着くのでしょうか?
・・・んなわけないよね^^;