第四章「過去の亡霊―1」
リアルファミリー1,2を読んで下さったかた、また、初めての方、お立ち寄りいただきましてありがとうございます。
毎日更新はできませんが、週に一度更新のペースですこしずつ書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
冴木 昴
父と会う場所はいつも、S大病院の裏にあるレンガ造りの喫茶店だった。SK製薬の営業部長という肩書きの父は、仕事でごく稀に勇介の勤務する外科病棟にも顔を出したが、病院内で父と二人で会話した事は一度も無い。
勇介をS大病院に就職できるように手を回したのは父だったが、それでも直接そうしたわけではなく、別の大学病院の教授から、S大病院第一外科の香川教授に紹介状を書いてもらっただけだった。父からそう聞いていたし、香川も同じ事を言っていたから間違いない。
勇介がSK製薬営業部長の息子だと知れ渡ったのは、勤務して半年以上経ってからだった。ゆえに、あの話は何かの間違いだ。
――父からS大病院上層部への献金疑惑。
だが、そんなウワサがある以上、放置するわけにはいかない。
勇介は、休日を利用してS大病院にやってきた。車を降り、巨大な白亜の建物を振り仰ぐ。ドクターヘリの導入が決まったということで、本館の屋上にヘリポートを作るための足場が組まれている。そのせいかどうかわからないが、久しぶりの古巣だというのに、懐かしい気持ちは一向に湧いてこなかった。
正面玄関から入ると、大勢の人間でごった返しているロビーをつっきる。そのままエレベーターで3階まで上がった。三つの建物をコの字型につなぐ連絡通路を通って外科病棟に出たとき、初めて懐かしさを感じた。
研修医から始まって、六年近くをこの病棟で過ごした。ここを出てからまだ三ヶ月ほどしか経っていないのに、ずいぶん昔のことのように感じる。
勇介は外科の医局に顔を出した。知り合いの看護師を探したが、そこに居たのは見知らぬ若い看護師二名だけだった。二人は勇介の容姿を見て、パッと顔を明るくさせた。こんな反応は、勇介の事情を知っている者にはけっして見られるものではない。
S大病院は人事のローテーションが早いから、たぶん新人か別の科から来た看護師なのだろう。
「すみません、北詰と申します。沢木先生にアポとってあるんですけど」
「え、お約束があるんですか? それって、今、ですか?」
看護師は壁の時計に目をやってから、ちょっと眉根を寄せる。勇介はうなずいた。
ひとつ先輩の沢木とは、けっして仲がよかったわけではない。むしろ、彼は勇介のことを嫌っていた。だが、今回の疑惑の真相を知るためには、彼に聞くのがもっとも適していると思われた。沢木ならば勇介に同情することもないし、もしも疑惑が事実であれば、彼は嬉々として本音を言ってくれるに違いない。
看護師たちは、しきりにお互いの顔を見合わせている。
沢木はいないのだろうか。
「沢木先生のほうから本日のこの時間を指定してきたのですが?」
すると、ひとりが申し訳なさそうに言った。
「あの、沢木先生は、今ごろ公開オペを執刀なさっているはずで、ですから日にちの間違いでは……?」
彼女の言葉に勇介はピンときた。お礼の言葉を述べて、即座に踵を返す。向かう先は第一オペ室の上階にあるモニタールーム。
(――ったく、あの人のやりそうなことだ)
わざわざ自分が執刀する公開オペの時間を指定してくるとは。けれども、いまだにライバル視されているのかと思うと、なぜだか悪い気はしなかった。
モニタールームの手前に案内板が設置されている。
【大動脈瘤切除術公開 十時~ 第一外科・香川チーム】
循環器系統の手術では、比較的定番の部類に入る。勇介はそっとモニタールームの中に入った。正面の大きなガラスの前に人が群がっている。そこから階下にあるオペ室が見下ろせるようになっているのだ。ガラス窓の上部に四つのモニターがあり、それぞれが違う角度で目の前のオペの状況を映し出している。
室内は熱気に満ちていた。公開オペといっても、対外的なものではなさそうで、医学生や系列病院の医師と思われる人々ばかりがいる。年齢層も比較的若い。その中に、勇介はよく知った顔を見つけた。
人々の間からそっと手を伸ばして肩に触れると、初老の紳士は振り向いた。一瞬目を見開いてから、紳士はにっこりと笑った。
「誰かと思えば」
「お久しぶりです、香川先生」
元上司であり、恩師の香川教授は人のよさそうな笑みを浮かべたまま、勇介を傍らに呼び寄せた。周囲にいた医学生たちが気づいて場所を空けると、勇介の眼前にもっとも懐かしく思える光景が広がった。
――S大病院・第一オペ室。
つねに最新の技術と最新の医療機器がここにはある。ごちゃついた市立総合病院の救命オペ室とは比べ物にならない設備と広さに、あらためて圧倒された。
(かつてここは、オレの居場所だった)
毎日のようにオペ室と研究室を出入りし、技術と知識の向上にすべてを費やした。洗練されたスタッフと、最高水準の医療機器を使って、高度なオペに挑む日々が、ずっと続くと思っていた。
ガラス越し、眼下で行われているオペの様子に目をやる。ブルーの手術着を着た沢木が、ちょうど切除した組織を臨床にまわすために、銀色の受け皿へ取り出しているところだった。
勇介は時間経過を示すタイマーに目をやり、わずかに眉をひそめた。
「北詰くん、元気にしているようだね」
香川は手術の様子から目を離さずに言う。
「はい、なんとかやってます」
勇介もガラス越しの光景を見ながら答える。
ふと、父の疑惑のことを聞いてみようかという気持ちが湧きあがってきた。S大病院の第一外科最高責任者の香川なら、何か知っているかもしれない、と。
(いや、それはないな……)
勇介はすぐに思い直す。一ツ木は、「助教授数名」に金が流れていると言ったはずだ。そんなことが公然とまかり通っているならば、それは香川が容認しているのか、もしくはまったく知らないかのどちらかである。香川の性格からすれば、容認はありえない。
(香川教授はたぶん蚊帳の外)
香川教授は優秀な医学者だが、それを取ってしまえば浮世ずれした人が良いだけの男だ……と、以前沢木が言っていたのを思い出す。辛辣な言い方だと思うが、「言い得て妙」とは、まさにこういうことなのだろう。香川の頭の中にあるのは、医療のことだけなのだ。
ちらりと香川に目を向ける。小柄な紳士の眼差しは、何ものをも見逃さないといったふうに、オペの様子に向けられていた。
沢木が助手に向かって指示を出している。ようやく切除部分の縫合が始まったようだ。
「どう思う? 沢木くんの執刀」
まるで勇介の内心を見透かしたように、香川が小声で話しかけてきた。
「順調のようですね」
勇介は内心を悟られないように、抑揚のない声で言うが、それは一般的に見ればという意味で、本当は少々遅いと感じていた。
香川は上部のモニターに目を移していた。勇介もモニターを見上げる。そこには執刀医の手元の画像がアップで映し出されている。沢木は血管を吻合している最中だった。
「血管の吻合、九針か」
香川がモニターを見つめて言う。
「……見事ですね」
適当に相槌を打ち、勇介は無表情にモニターから目を離すと、もう一度オペ室全体を見た。沢木の立ち位置に自分の姿を投影すると、このオペ室内で行ってきたオペの数々が脳裏に甦ってきた。ピリピリと張りつめた緊張感。生命を紡ぐ息詰まる瞬間。
勇介は大きく息を吐いた。
いつかこの病院に戻りたい、と思う自分が確かに居る。難易度の高いオペに成功した時の達成感、自分の知らない新しい技術を目にするときの興奮。市立総合病院の救命では、自分の持っている技術がすべてだ。誰も新しいことを教えてはくれない。
「本当に見事だと?」
香川がぼそりと言った。
目を向けると、思慮深いまっすぐな瞳と出会い、勇介は思わず目をそらした。
「北詰くん、キミならあの吻合には十二針はいけるはずだ。しかも、もっと短時間で」
「え?」
「……私はね、とても後悔しているんだよ」
香川は何が言いたいのだろう?
尋ねようとしたとき、誰かが香川の名前を呼んだ。香川は「失敬」と言って、人々をかき分けながら呼ばれたほうへ行ってしまった。
香川の背中が医学生たちの群れに消えると、勇介は踵を返してそっとモニタールームを出た。
エレベーターではなく階段を使ってぶらぶらと歩きながら表を目指す。あの時点でもう大動脈瘤切除の山場は越えたはずだから、のんびりと一服しているうちに、沢木のオペは終わるとわかっている。
一階に下りたとき、救急車のサイレンが耳に飛び込んできて、勇介はハッと周囲を見渡した。外科病棟の一階と救命救急センターが廊下でつながっているのを思い出した。
(……ったく、よそに来てまで何考えてるんだか)
救命のほうを気にしている自分に気づき、勇介は苦笑する。
そういえば、この病院の救命にはあまり足を踏み入れたことがなかったなと思い、そのまま救急車のサイレンが鳴るほうへと歩いて行った。
救命の廊下に出ると、患者はもう搬送されたあとのようで、救急隊員が引き上げて行く後ろ姿があった。
隊員たちが去って行ったあとでも、廊下には多くの人が行き来していて、騒然としている。壁際に並べられたソファには治療を待つ軽傷の患者や付き添いの人たちがおり、看護師やレントゲンの技師、ボランティアの介助スタッフなどが歩き回っていた。
勇介はため息をつく。この病院は患者も多いが、スタッフにも恵まれているのだなとあらためて思う。
外科病棟へ戻ろうかと思ったときだった。
搬送口付近で幼い男の子が泣いているのを見つけた。これだけ人がいるにもかかわらず、誰も男の子の元へ行こうとしない。男の子の周囲に大人はおらず、ぽつんとひとりで立ちつくしているのがなんだか痛々しく感じ、勇介は側へ行って声をかけた。
「どうしたの? お母さんかお父さんは?」
男の子は涙に濡れた顔を上げ、勇介をじっと見あげているが、口を閉じたままだ。おびえたような表情に気づき、目線の高さにしゃがみこむと、男の子はようやく口をひらいた。
「ママ、あそこ……」
男の子が指差したのはオペ室だった。
「パパも、あそこ。……出てこない」
「え!」
勇介の脳裏に突然渚の姿が浮かんだ。救急車、両親のいない子ども、交通事故。それらのフレースが一挙に頭の中で渦を巻く。
(両親ともオペ室に入っているなんて、まさか交通事故か?)
「誰か他に、知ってる大人はいないの? きみ、ひとり?」
男の子は涙目で首をかしげるばかりだ。
勇介は腕時計に目をやる。沢木のオペはもう終わっているに違いない。こちらから聞きたいことがあって時間を割いてもらうのに、沢木を待たせるのはマズイ。
でも……
目の前の男の子はまだ小学生にもなっていないように見える。やわらかそうな髪、ふっくらと赤い頬。小さな手の甲で懸命に涙をぬぐう仕草に、わけのわからない使命感がこみ上げてきた。
勇介は男の子と並んでオペ室前のソファに腰掛けた。「救命にいる」と、沢木にメールを入れたが、果たして見るかどうかわからない。けれど、このまま放っておくわけにもいかない。
(……仕方ないか)
男の子が泣きやんだので、くわしく事情を聞こうとしたが、やはり幼児の話は要領を得なかった。逆に、母親の話をしたことで、また涙ぐんでしまったので、勇介は別な話題を懸命に探した。
先日渚に買ってやった絵本から、何か話そうと必死に思い返すが、まったく内容が出てこない。なんせ、半分寝ながらの読み聞かせなので、自分の頭にさっぱり入って来ないのだ。仕方がないから定番の昔話を記憶の中から引っ張り出す。
「桃太郎のお話してあげようか?」
無難な線で提案すると、男の子は赤みの残る目で、やや小馬鹿にしたような視線を投げてきた。
「知ってるもん。あれ、つまんない」
(え……)
「じゃあ、浦島太郎は?」
「最後におじいさんになっちゃうやつでしょ? ちがうの、ないの?」
「ち、ちがうの?」
泣きやんだのはよいが、困ったことになった。
「かぐや姫……」
「いや!」
言った瞬間に却下された。近頃ようやく子どもを好きになりかけていたのに、また嫌いになりそうだ。
(こんなとき、あーちゃんならどうするんだろう?)
育児の先輩である歩の顔がちらつく。
ちょいちょいと袖をひかれ、勇介は我に返る。男の子が期待に満ちた眼差しで勇介を見上げていた。
「ああ、そう、お話か。……おばけの話ならあるけど」
そう言いつつ、先日宮下看護師が勘違いした、「黒崎先生のっぺらぼう事件」が思い浮かんだ。よく考えてみれば、なんともばかばかしくて笑えない話だが。
「おばけ? ぼく、聞きたい」
男の子は以外にも食いついてきた。
(そんなんで、いいのかよ……)
なんせ病院勤めもかれこれ七年を越えようかという勇介だ。病院には七不思議というか、幽霊話というか、そういった類の話は必ずあるものだ。興味のない彼でも、ひとつや二つは耳にしたことがある。勇介はコホンとひとつ咳払いをして話し始めた。
たいへんお待たせしました。(え、待ってない?)
いよいよ連載再開しました。とはいえ、なかなか時間のとれない日々が続いており、一気に書けないストレスで悶え死にそうになりながら、それでもちょびっとずつ進めております。気長にお付き合いいただけたら幸甚です。