7
雲ひとつない青空。
ディスプレイ上のどんな"青"も、この空ほど青くはないんだろうな。
そんなことを、ふと思う。
大嫌いだった太陽の光が、容赦ない明るさで影を殺していく。いつも頭の上にあった薄汚れた天井を、ひどく恋しく思う。幾重にも厳重に施したあたしの心の覆いは、暖かい光の前に為す術もなく溶かされていく。
駅前の小さな公園の茶色いベンチの隅に、あたしは座っている。
一月の冷たい空気の中、眩しすぎる青空にくらくらしながら、あたしは駅に出入りする人の群れを目で追っていた。
ビジネスバッグを重そうに抱えながら携帯電話に向かってひたすら謝っているサラリーマン。隣の同僚に向かってしきりと愚痴をこぼしているOLらしき女の人。手をつないで楽しそうに笑い合っている、若い男女。
世の中には色々な人がいるんだなぁ。そんな当たり前のことを、ふと思う。
でも誰もが自分の人生に一生懸命で、それがあたしにとってひどく遠い存在のように思えた。あたしは、この人たちと同じ世界の中で生きているのだろうか。生きていて、いいのだろうか。
せわしなく働きすぎてオーバーヒートしてしまいそうな頭を休めようと、あたしは軽く目を閉じた。手にした白い傘の柄を、そっと握りしめる。
こんなによく晴れた昼下がりに、傘を手にしたあたしの姿はひどく目立っているに違いない。
これは、カケルとあたしとの「目印」だった。
明日はよく晴れるらしいから、目印に傘を持っていこう。そうすればお互いがわかるはずだ。
カケルが、メールでそう提案する。そんなの目立って恥ずかしいよ、と抗議したあたしに、カケルはこう返してきた。
--------------------------------------------------------------------------------
送信者:カケル
受信日時:2006/01/10 11:18
件名:無題
本文:
目立たないと目印の意味がないじゃないか(笑)。
--------------------------------------------------------------------------------
カケルが、「(笑)」なんて書いてくるのははじめてだった。だからあたしはなんだかうれしくなって、思わず「いいよ、わかった」なんていうメールを送ってしまったのだ。
ベンチに座りながらそのときのことを思い出して、あたしは口元が緩んでくるのを感じていた。あんなに嫌いだった陽射しも、今は少しだけ優しくなったような気がする。
カケルと待ち合わせをしているこの場所は、東京の外れの駅前だった。カケルが待ち合わせに指定したところで、カケルが住んでいる家から一番近い駅なんだそうだ。
「自分で、『横浜なんてすぐだ』なんて言っておいて、家の近くまで呼び立てたりして本当に申し訳ない」なんて、カケルはしきりに謝っていたけど、あたしは自分の町を一度離れたかったから、ちょうどよかった。
そんなわけであたしは、すごく久しぶりに電車に揺られて、ここまでやってきたのだった。
約束の時間よりもかなり早くに待ち合わせの公園に着いて、ベンチに座って目を閉じ想いを馳せる。
カケルは、どんな顔をしているのだろうか。背は高いのかな。声はどんな感じだろう。
……あたしをはじめて見たカケルは、どんな顔するのだろう。
そう思ったら、急に心臓の音が激しく鳴り出した。
いつものように失敗してしまうんじゃないだろうか。あたしは、人としゃべるのが下手だから、カケルともうまくしゃべれなくて失望させちゃうんじゃないか。
言い様もない不安に襲われたあたしの頭の中に、カケルのくれた言葉が浮かんだ。
「完璧を求めなくていい。人と同じじゃなくてもいい。欠けている所がある自分を、ありのまま受け止めればいいんだ」
カケルは、自分も「欠けている」のだと言っていた。あの言葉は、自分に言い聞かせていたのだろうか。
でもそれは、やっぱりあたしの心に、深くしみこんだ。
受け止めよう、あたしを。これがあたしなんだから。はじめて会ったカケルに、とびっきりの笑顔を見せられるように。
怖いけれど。今にも体じゅうが震えだしそうなくらい、怖いけれど。もう嘘をつくのはやめたんだ。あたしは、本当のあたしで、カケルと向き合いたいんだ。
心の中でそう決めて、あたしは静かに深呼吸をする。大きく吸った息が体の中に沁み渡って、あたしの鼓動を少しだけ緩やかにする。
「君が、KAYOだな」
その声が目を閉じたままのあたしの耳に飛び込んできたのは、突然だった。
少し高い、でも決して不快じゃない澄んだ少年の声。
どくん。
あたしの胸が、周りの人たちに聞こえたんじゃないかと心配になるほど、大きく高鳴った。
「オレは、カケル。風間 翔。よろしく、KAYO」
ゆっくりと目を開いたあたしの視界で、そう言ってぎこちなく右手を差し出していたのは、青い車椅子に乗った小学生くらいの少年だった――。
「意外と、背が高いんだな。それに……思っていたより美人だ」
あたしが何かを言う前に、翔はそんなことを言って、幼い顔で微笑んだ。
長い睫毛が優しく揺れて、とてもきれいだな。
あたしはそんなことを、ふと思う。
その顔には屈託がなかったけど、でもほんの少しだけ、寂しそうに見えた。
それから翔は、差し出したままだった右手を決まり悪そうに引っ込めようとする。
「あ、あたしは、斉藤加世子!」
慌てて言いながら、あたしも右手を差し出す。
翔が、きょとんとした表情になって、差し出されたあたしの手と、引っ込めようとしていた自分の手を交互に見つめる。そしてうれしそうに、……そう、今度は本当にうれしそうに、にっこりと笑った。
「……よろしく、翔」
あたしは、少しだけ震える手で、翔の右手をそっと握った。
冷たい風に冷え切ったあたしの手に、翔の手から、優しい温もりが伝わってくる。機械の排熱なんかじゃない、人の温もり。何年かぶりの人肌の感触は、とてもとても、暖かかった。
あたしの目から、熱い雫が、とめどなく流れ落ちてくる。
「お、おい、泣くなよ、加世子。オレ、なんか悪いことしたか?」
慌てたように言う翔の、困った顔。不器用だけど優しいその様子は、ディスプレイの中であたしが会話していたカケルと、おんなじだった。
「……カケルが小学生だったなんて、反則だよ」
あたしは精一杯笑顔を作って、翔にそう言ってやった。……やっぱり、少しだけ涙声になってしまったけど。
「小学生じゃないぞ、中学一年」
「同じだよ!」
「同じじゃないだろ、オレは立派な中学生だ」
憮然とした顔で言う翔がおかしくて、あたしは声を上げて笑った。
すごくすごく幸せな気分になって、あたしは泣きじゃくった顔のまんま大声で笑いながら、車椅子の翔に抱きついていた。翔の温もりが、あたしの腕を通して硬く凍っていたあたしの心を暖める。
驚いた翔の声と、あたしの笑い声が、午後の優しい陽射しの中で弾けていった。
<終わり>
ラストになります。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。