専門家
やっと30話まできました。
吉村たちは「ドリイ」の回収を田中たち「ドリイ」班に任せ、今回乗り組んだ原子炉技術の専門家と状況の検討に入った。原子力安全委員会から委託を受けた原子炉技術の実務家である北村と原子炉設計、特に圧力容器の設計に携わる志村、放射線測定が専門の東京大学の鈴木の3名に、吉村、長野と海棲生物学の村木、海洋学の望月などが加わった状況の検討は陰鬱な空気に包まれていた。原子炉の状態が想像以上に酷いことがその原因だった。
口火を切ったのは志村だった。
「想像以上に酷いです。圧力容器の破断など、これまで試験ですら見た事がありません。おそらく、冷却水循環が停止して短時間で内圧が上昇し破断したと思われますが、圧懐してからでは周囲の水圧がありますから、破断できません。圧力容器の破断は圧懐前に起きていたものと想像します。」
「圧懐前に圧力容器が破断???そんなことがあり得るのか?それに『みこもと』の音響観測装置は推進器音停止から、圧懐まで捉えてる。1時間に満たない時間で圧力容器が破断するほどの内圧上昇が起きるのかね?」
「無いとは言えません。発電用原子炉などでしたら、そういう事が発生する以前に逃がし弁が開いて、ウエット・ベントという状態になります。これは圧力を上げている原因の水蒸気を格納容器下部にある、圧力調整室に導き、内部に貯めてある水の中に放出する事で、水蒸気と水という相による体積の差を用いて圧力を安全なレベルに保ちます。しかし、軍用の場合、この圧力調整を行う必要が有る、という状況はすでにエマージェンシーであり、多分それは海中に直接放出されることになるはずです。しかし、海には深さがありますから、どんな水深でも放出が可能だとは限りません。少なくとも放出出来る限りは、その水深での水圧より、放出される水蒸気の圧が大きくなければ、放出はされず、圧力容器内圧は水圧と同じ程度に保たれます。つまり、この潜水艦は、圧力容器が破断する圧よりも深く潜ったと言うことになります。それでも、原子炉区画が先に圧懐して、水で満たされたなら、破断は起きなかったでしょう。内外圧が均圧すると思いますから、その時点で圧力容器に掛かる力はゼロになります。そうではなかったから、圧力容器が破断したのだと思います。」
「説明は理解できるが、本当にそんなことが起きるのだろうか。」
「潜水艦の原子炉は加圧水型と呼ばれるものがほとんどです。ですから、圧力容器には一定上の圧力が掛かっているのが普通の状態です。本来は圧力による破断は発生するはずがありません。」これは北村だった。
「しかし、圧力容器に使われる金属材料が不適切な場合、放射線脆性により、硬く割れやすくなります。これが発生しているなら、他の部分の圧懐による歪みが限界を超えた力を圧力容器に及ぼし、破断したことも考えられます。」
「なるほど。「漢」級はかなり設計の古い潜水艦だからあり得るかも知れないなぁ・・・」
「ところで、原因についてはもう判りましたから、今後の対策をどうするのか、検討しませんか。」鈴木だった。
「しかし、鈴木さん、『みこもと』が出来ることはほとんどありませんよ。この船は観測、調査する事が仕事で、観測対象に何か出来る様なものは何もありませんよ。」
「しかし、深海潜水艇があるじゃないですか。事実上、この深度で作業が可能なのは『かいえん』だけですよ。」
「鈴木さん、そりゃ確かに、深海潜水艇はその耐圧部分の厚さがありますから、普通の潜水艇よりは放射線遮蔽に優れているかも知れませんよ。でも、深海潜水艇を操縦するのは生身の人間なんです。いくらなんでも、いまだに核分裂連鎖反応が継続している炉心から数mの距離で仕事をさせることはできません。」
「しかし、やってもらわなければ、汚染が際限なく広がって、太平洋は死の海になりますよ。」
「あなた、本気でそれを信じておいでなんですか。」
「吉村さん、あなたこそ放射線の恐ろしさを知らない。だからそんなことが言えるんです。」
どうもこの鈴木はある種の人々の仲間のようであった。吉村はこういう人種には容赦がない。
「放射線の怖さですか?あなたは実際に放射線、特に微量の放射線で恐ろしい状態になった方を見た事があるんですか?何より、あなた自身、放射線測定をおやりになっているわけで、それはとりもなおさず、ご自身が被爆していると言うことですが、あなた自身が恐ろしい状態になっているのですか。」
「いや、大人は良いんです。子供が心配なんです。」
「いい加減にしませんか?太平洋の海水には一体どれだけの放射背物質が含まれていると思っています?それにこの潜水艦の核物質が付け加わったからといって、何ほどのことが起きるのですか?」
「放射性物質と言っても、核分裂生成物じゃありませんよね。核分裂生成物は放射線強度が違うんです。」
「あのですね、非常に重いいくつかの元素を除いて、現在有る放射性物質はその全てが核分裂生成物なんですがね。」これは志村だった。
「失礼ですが、鈴木さんのご専門は放射線測定とありますが、核物理学のご専攻なんですよね。?」北村が聞いた。
「いえ、私は放射線測定、つまり環境中の放射線強度の測定が専門です。専攻としては環境学ですね。」
鈴木を除く、他の参加者の表情がそれと判るほど変わった。
「ということは、測定結果を基に、放射線の持つエネルギー量を測定して、放射性元素の特定などはなされるのですか?」
「それは核物理の範疇でしょう。私はそんなことしませんよ。人間の命が最初でしょう。」
これは調査機構の大ポカだった。現在必要なのは元素特定に基づく拡散予測を行う事で、この原潜による核汚染が人間生活とどのように関わってくるのかは、それ以降の問題だった。放射線の持つエネルギーを測定することで、分裂した核種をある程度特定できる。核種が特定できれば、それらの比重や性質が判り、それを前提にどの程度の範囲に拡散するかが予測可能なのだ。シンチレーションカウンターでどれだけの崩壊がカウントされるかは、作業に携わる人間の安全以外、現時点ではあまり重要ではない。
これが原子力発電所などなら、燃料ペレットの組成が判明しているため、核分裂生成物の分布は簡単に予想ができるが、相手が潜水艦の原子炉、それも中国であるなら、燃料組成は全く不明である。ウランが分裂して生成される放射性核種は限られているためその元素特定に問題は無いが、核燃料に含まれる不純物等が中性子を吸収して放射性核種に変わるような場合は組成が判らなければエネルギーを測定して特定するしか方法が無かった。吉村達はそのための専門家と思い込んでいた。おそらく調査機構もそうだったのだろう。
環境の放射線測定など、別に機器さえ有るなら素人でも可能だった。「みこもと」には、今回のミッションのため、それこそ必要以上に半導体式カウンターは積み込まれていた。また水中での放射線測定はそれこそ専門家ですらあった。要するに鈴木は今回のミッションには不必要な人間であったのだ。それは「みこもと」に調査機構が深海でも使えるように改造した放射線の固有エネルギー測定装置が積み込まれていた事が誤解を招いたと思われる。機器のキャリブレーションなどは専門家でなければ難しい。校正されていない機器でいくら固有エネルギーを測定しても、それは元素特定には繋がらないのだ。
困ったのは吉村だった。このままでは拡散予測が特定の元素だけになってしまいそうだった。実質、最も拡散しやすいと思われる、ヨウ素134とセシウム131だけでも、それなりの拡散予測は可能だったが、重金属系の放射性物質についてはお手上げだった。幸い、測定器のメーカーの人間が乗り込んではいるが、その校正を承認する科学的権威が居ない状態なのだ。結局、測定だけ行って、結果の数値の分析はネット経由で地上で行う事にし、校正の正否の判断は帰港してから校正記録を専門家に提出することで落ち着いた。多分、鈴木も東京大学というタイトルが無ければ、相手にもされなかったろう。東京大学の、という肩書きだけが信憑性を付与していたのだ。福島の原発災害以来、このような人間が増えていた。
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