プリオン
第18話です。
その頃、「みこもと」の生物学実験室では、「みずなぎ」の持ち帰ったサンプル海水の分析が進んでいた。
「村木さん、これ見て貰えますか?」
「何か判りましたか、望月さん。」
「ええ、この海水サンプルですが、こりゃポタージュ・スープですよ。中はタンパクで一杯です。このまま火を通せば、塩辛いですが美味いかも知れませんよ。」
「ってことは、タンパク分子塩水溶液って感じですか?なんか醤油か醤醢みたいだな。」
「当然ですが、この溶液に大出力のレーザー通せば、経路のタンパクは熱で変成して白濁するわけです。で、そのタンパクなんですが、こういうものです。」
望月は電子顕微鏡で海水サンプルを見た映像をモニターに出した。
「ありゃ、これウイルスですか?」
「いえ、遺伝情報は持ってませんから、プリオンというのが正しいでしょう。それよりも、こちらの結果が面白いですよ。実は電撃の由来を調べるための実験だったのですがね。」
望月はさきほど終了した実験映像をモニターに出した。
「これ、プレパラート上に海水サンプルを置き、両端に約1Vの電圧を掛けた結果です。」
「こりゃまた、きれいに整列しましたなぁ。」
「ええ、電圧を掛けると、このプリオンみたいなものは、整列します。一種の液晶とでも言いますか・・・その上で、画面の右上の表示を見て欲しいんですが、整列前は普通の海水電気伝導度なんですが、整列した後、急激に伝導度が下がり、逆に起電していることが判りますか?」
画面右上の数字が整列と同時にマイナスになっていた。つまり、このプリオン類似タンパクは、整列すると発電作用がある事を示唆している実験結果だった。
「望月さん、こりゃ、普通の生物学者じゃ手が出ませんよ。分子生物学で扱う分野です。」
「そうだと思います。ともかく、ここで出来ることには限界があります。研究室へ帰って厳密な条件で調べないと本当のことは判らないと思います。」
「僕の方もどうもこのサンプルは集合体として動くように思います。染色剤で着色してサンプルを一般の海水に入れると、凝集するんです。何に反応しているのかまではまだ判りませんが。」
「整列すると起電する事に何か関連がありそうな気がしますね。」
「ともかく、ここでは限られたことしか判りません。今、潜水艦救難に必要なのはどんな刺激に反応して放電するかが優先されると思います。限られたサンプルしか有りませんので、深く追求は出来ませんが、ともかく刺激を与えて見ましょう。」
この実験の結果、このプリオン類似タンパクは、タンパク凝固を発生させる現象、つまり熱に反応して凝集する事が判明し、電位差を与えると整列し起電する事も判った。また、この時、凝集範囲内に導電性の物質が有った場合、そこで発生する電位差により整列が発生し、現在海中にあるような膨大な量では、整列の完成と同時に強烈な起電力が起き、それによって、瞬間的な電撃が発生することも判明した。
このことから潜水艦が電撃を受けた原因が特定できた。つまり原子炉温排水により、凝集が発生、艦外に露出した金属部分による電位差で整列した事で電撃を受けたのである。これが原因ならば、潜水艦は2次冷却水の流量を増やして温度をタンパク凝結温度以下にする事で、このプリオン類似タンパクの凝集行動を引き起こさずに動力を得られる事になる。しかし、これで潜水艦の脱出は可能になるかも知れないが、「みずなぎ」が受けた電撃は説明不可能だった。タンパク凝集体が自律行動を起こしたように見える事は説明できない。
それでも、この実験結果は貴重であることに変わりは無かった。二人は吉村に実験結果を報告した。
「それじゃぁ、この海水はスープみたいなもんというわけかい。」
「そういうことになります。ただし、電撃を引き起こせるスープですが。」
「なんか物騒なスープだな。あまり食卓では出会いたくないなぁ・・・」
「そんなことより、早く米軍に知らせなくて良いのですか?」
「おお、そうだ。望月君、ちょっと呼んできてくれ。」
米海軍の技術士官はすぐに顔を出した。吉村は実験結果をかいつまんで説明し、温排水についても排出温度を摂氏60度以下、できれば50度以下に保つようにすることで凝集を回避できる事も説明した。実験映像と説明を聞いた米海軍士官は信じられない、という顔をしていたが、「みずなぎ」に加えられた電撃の結果を実際にみているからには、信じるほか無かった。何より、電力さえ復旧すれば、自力で状況を脱出出来る可能性があるのだ。すでに潜水艦乗員の生存は「かいえん」からの連絡で判っていた。しかし、この深度では救出の方法が無いのだ。DSRVは安全潜行深度900m程度、無理しても1200mより深いところでの救出活動は不可能だった。それゆえ、潜水艦が自力で脱出出来る可能性があることは、大きな朗報だった。
ほどなく、「金魚」の複合トランスデューサーと「ドリイ」の制御ケーブルを用いて高粘度海水ドーム下に下ろした簡易音響情報収集装置が、米海軍使用の海中通話装置、今も昔も、変わらず「ガートルード」と呼ばれる装置の発する変調波と思しき信号を捉えた、とシステム担当の長野から連絡があった。
米海軍技術士官が持ち込んでいた「水中通話装置」の送受波端に「ドリイ」制御ケーブルのうち、音響信号伝送用の4本の線を繋ぎ込むと、通話装置のスピーカーから、高域と低域の双方を酷くカットした(それゆえガートルードと呼ばれる。)音声が聞こえた。
米海軍士官6名は全員が「ドリイ」制御室に集合して、潜水艦との通信の成功を喜んだ。通信によれば、すでに潜水艦はスクラムした原子炉の再起動ルーチンに入っており、数十分で原子炉を臨界状態にできるようであった。米海軍技術士官は、望月と村木の実験結果を潜水艦に知らせ、2次冷却水排水温度を50度以下に保つよう、注意を促した。潜水艦側は、それを了解し、発電開始後、2次冷却水流量を増加させ、熱排水温度を低く抑える対策を検討すると返信してきた。一般に軽水原子炉は出力調整が簡単ではないため、ほぼこの対策以外、有効な対策はないと言う意見で、「みこもと」側も潜水艦側も一致していた。
その他、現在位置の海水粘度が異常である事、その原因が異常なほどに凝集したプリオン類似タンパクによるものであること、などの情報が伝えられ、また、海上には第7艦隊の空母任務群が待機している事、負傷者、疾病者などは、浮上後空母への緊急移送が可能であること、この回線はその他の通信が復旧するまで、24時間体勢でモニターする事などを伝達して、最初の交信は終わった。