昔と今
空が茜色に染まり、その中に小さく瞬く星が浮かぶ。空高くを鳥の群れが風に乗ってねぐらを目指している。
ナテアとセアラは赤々と沈もうとする太陽を背に、馬車の荷台から降り立った。両手に抱えた荷物を地面に置いて、強張った体をほぐすように背伸びをする。それから屋敷近くまで乗せてくれた農夫に礼を言うと石造りの門をくぐった。
「やあ、いい買い物はできたかい?」
敷地の中へ入ったところでふたりはそう声をかけられた。髪の白い、老年の門衛だった。
「ええ……まあまあね。もうちょっとおじさんが門を閉めるのを遅くしてくれるならいいんだけど」
「ははは! セアラも言うようになったなあ。まぁもしかすると鍵をかけ忘れることはあるかもしれん」
「もう、そう言っていままで一度もないじゃない」
「まぁな、年食ってもまだまだ仕事は間違えんさ」
カラカラと笑う門衛のおじさんの言葉に、ナテアの隣でセアラが唇を尖らせながらも小さく笑った。
「おじさんも、まだまだ元気なんだから現役で頑張ってよね」
「そりゃあもちろん、ふたりが嫁に行くまでは頑張るつもりさ」
そのままナテアたちは門衛のおじさんの声を受けながら屋敷へと続く道を進んだ。
ふたりが入ってきた門は使用人や荷物を載せた馬車などが通る際に使う。もちろん家の主一家や客人などの利用する門はこれと違った。
使用人たちの使う門は表からは見えにくい影となる部分に設置されており、また建物との距離も近い。街中にかまえられたタウンハウスなどを除けば貴族の屋敷、館は大抵似たような配置となっている場合がほとんどだ。
徐々に薄暗くなりはじめるのと共に、建物に灯りがともされる。ナテアはそれを確認すると自然に歩みが早くなった。
「――間に合いそうね」
隣でそう声をかけてきたセアラに顔を向けると、彼女の視線も屋敷へと向けられていた。
「うん」
ナテアは二階、三階とある屋敷のガラス越しに小さくパラパラと人影を見た。
夜はもうすぐそこまで来ている。与えられた休みの余韻をゆっくり思い出す時間もない。またいつものように慌ただしい日が始まる。実際は違うのにもうずいぶんと長くここにいる気さえした。そう思ってしまうほどに毎日がそれだけ濃いくて――ただ、それでも今夜は普段よりも足取りが軽かった。突然だったクラウスとの再開にまだ少しナテアの心は浮かれていた。
「――あれ? 二人とももう帰ってきたんだ。夜までもう少し時間あるよ?」
いくつかある裏口から屋敷の中へ入ると、何人かの使用人とすれ違った。仕事中なのか、足早に廊下を進む彼らの中で一人の少女がナテアたちを認めると、彼女だけその足を止めた。
「今の季節はまだ明るく見えるけど、もう門が閉まる時間なのよ」
セアラは肩をすくめて窓から外へ視線を投げる。隣でまだ屋敷のすべての使用人の顔と名前が重ならないナテアは、同年代であろう少女に浅く頭だけ下げた。
セアラにつられて外を見た少女が大きく瞬きをすると「ああ」と納得するように頷いた。
「そうだったね。じゃあお土産は?」
「あるわけないじゃない。もう、私たちは部屋に戻るから」
「ええっ、セアラのけち!」
「けちってなによ、けちって。それよりも早く戻ったほうがいいんじゃない」
ふてくされたように頬を膨らませる少女にセアラがきっぱりと言い返す。ただその唇は緩められていた。
セアラの言葉に少女がうん、と頷いて、そのまま唇を閉じた。それから周囲に視線を巡らしてから、半歩セアラに近づくと、小声で言った。
「……私のことよりも。セアラこそ遅刻なんてしちゃだめだからね。彼女たち、ほんっとそういう嫌味見つけるのが得意なんだからさ!」
「え? うーん……」
「セアラの身分なら変なことは起こらないと思うけど、用心にこしたことはないんだから」
ね、と少女は小さくもそう力強く言うと、そのまま他の使用人たちが歩いた方向へと行ってしまった。
この屋敷では様々な人たちが同じ屋根の下で働いていた。
先ほどの門衛のおじさんはナテアたちが生まれるずっと昔からここにいるし、ナテアよりずっと若い少女が厨房の外で皿洗いをしていたりもする。ここが三度目の仕事場だという経験豊富なメイドもいれば、ナテアのように初めての、しかも孤児院出身もいる。
「――そう思うと不思議よね」
「何が?」
小さく呟いたつもりが、セアラの耳に届いていたらしい。部屋へと戻る道を歩きながら、ナテアは一瞬ためらって、でもやはりと思ったことを聞いた。
「……だってセアラは貴族なんでしょう?」
「ええ、そうだけど」
「だったらどうしてメイドをしてるのかなと思って」
「……」
セアラが、正しくはセアラの父だが、ダールベルク王国で男爵の称号をもった貴族であることは、セアラ本人から聞いて知っていた。それは周知の事実のようで、時折同じ使用人の中でもセアラに対して気を使う場面に出会ったことが何度かあった。もちろん仕事自体に差はなかった。ただどんな経緯であれ、セアラが貴族の娘であることに変わりはない。貴族や良家の子供たちが使用人として奉公することはないことはないがそれは古き良き時代、特に現在の貴族ではほとんどないに等しかった。
ナテアの問いにセアラは口を閉ざしたままだった。
「――ごめん」
ナテアはセアラの方を向けなかった。人には誰しも聞かれたくない、言いたくないことが一つや二つあることは、自分の経験も含めて知っているはずだったのに。深く考えず何気なしに聞いてしまった自分を恨んだ。謝りの言葉がよりそのことを自覚させる。
静かに落ち込むナテアの横でセアラが小さく笑ったのはその時だった。
「ちがうのよ」
「セアラ?」
ナテアの視線は自然とセアラへ向いていた。
「――元々ね、私の家はローウェル家に縁があったの。私の家の持つ領地は小さな町と村と、農地と後は山ばかりで、まぁ広さでいえば結構あるのかもしれないけどでもそれだけで。ただ……代々のローウェル家の方はそれを気に入ってくれているみたいで、夏になると避暑で遊びに来られたりもあったわ」
「遊びに?」
「そう。私の実家は確かに男爵家だけど相手は公爵家。一応私の家も古い家柄ではあるんだけど公爵家となると普通はそうそう横に並べるものじゃないんだけどね」
セアラは言いながら肩をすくめた。男爵家や子爵家であっても長く歴史のある家柄ならばその爵位以上に一目置かれる。家柄と歴史と血というのはどの国でも重要視されるものだ。
「でも……ということはセアラってナタリアお嬢様やジーン様とも遊んだりしてたってこと?」
ジーン様、といえばいつもセアラがキャーキャーと騒いでいたローウェル家の嫡男だ。だからそれを思い浮かべると、今の話はまるで違う人のことのように思えてしまう。おそらくナテア以外でもそう思う人がほとんどだろう。
「……ナテア、ちょっと疑ってるでしょ?」
「う……」
「作り話じゃないわよ。これでもね、私も男爵家の令嬢なんだから」
「自分で言うの?」
「まあいいじゃないの」
軽くおどけて言うセアラに、ナテアがくすくすと笑い返す。
セアラもつられたように笑って、それから今度は小さく言った。
「――でもね、それはずっとずっと小さいころの話。それでいて私の大事な思い出よ」
「それは……」
ナテアはセアラに何といえばいいか分からなかった。切なく笑うセアラの顔を見ると、彼女がジーンを幼いころから想ってることは分かるのに。
「色々とね、立場はわきまえてるつもり。子供のころに交流があったからって、それはただの過去にすぎないのよ」
「でも」
「……詳しくは言えないんだけどね、家に関しても本当によくしてもらってるの。だから私は私ができる精いっぱいのことを頑張るのよ」
ナテアはじっとセアラの瞳を見つめた。
「それ……聞いてもよかった?」
平民には平民同士の、貴族には貴族同士の、問題やいざこざがある。それはいつの時代も同じできっと今も変わらない。小さな煙が大火に変わることもナテアは知っていた。もしかすると今のこの会話の内容が何かのきっかけとなるかもしれない可能性だってあるんだから。
セアラは瞬いて、そうね、と小さく笑った。
「なぜか、なぜだかよく分からないんだけど、ナテアにはいつか話せる日がくると思う。だからその時は、私の話を聞いてくれる?」