握手
ナテアのすぐ目の前にいたのは二人の男だった。ひとりは名前も顔も性格も、好きな食べ物も嫌いな食べ物もよく知っている――クラウスだ。反対にもう一人は初めて見る青年だった。クラウスと比べると背は少し足らないが、外見から同年代のようであるし二人は友人なのかもしれない。
偶然の出来事にナテアはただぽかんと口を開け、クラウスを見上げた。クラウスの方も驚いた顔をしていて、おそらく同じく呆けた顔になっているに違いない。
「ナテア……?」
後ろからセアラに名前を呼びかけられたお蔭で、固まっていた思考が緩やかに動き出だす。
一度視線を地面に移してそれから再度元に戻した。見間違えではない。まぎれもなく本人だった。
そう確認するとナテアは後ろを振り返った。
いつもはまっすぐとナテアを見る瞳が今は困惑に揺れている。説明を求めるようにセアラが首を小さく傾げていた。
「ええっと、友達。同じヴィルデの町の」
「ヴィルデの?」
「そう、一緒に育った」
そこまで言うとセアラが気付いたように「ああ、」と頷く。セアラには孤児院で育ったことを話していた。他の使用人たちには話していない。別に隠すわけではないが、ぺらぺらと簡単に言いふらしたい内容でもなかった。
ナテアは幼いころからこれまでをヴィルデの町の孤児院で過ごしてきた。その場所は文字通り親や養うべき大人、身寄りのない子供が集まる場所だ。ここ、ダールベルク国は平和で経済的にも安定した国である。しかし今でこそそう言えるのだが、ナテアがまだ小さいころまでは周辺の国との争いが絶えない国であった。親が死んでしまったためにやってきた子や、家に食べ物がなく連れてこられる子もいたし、戦火から逃れるため自ら扉を叩いた子もいた。共通するのはみんな一人だということだった。兄弟で、という子もいたがほとんどは頼るべきは自分だけ、そういう子供ばかり。憐み、同情の視線を受けることは少なくなかった。特に今のような平和な世の中になってからは。
食べ物はたくさん食べられるし住むところもある。家族同然の仲間たちも大勢いて、寂しくもなかった。それなのに周りが自分たちを可哀そうだと言う。向けられる視線が一方的に憐みを伝えてくる。中には本当に心から心配してくれる人がいるのを知っている。それでもそんな人はこれまでに数えるくらいだった。
セアラに話したのはいつだったか。いつも通り仕事を終えた夜、互いに疲れ果てた体でベッドに横になって、窓辺に置いたランプの灯りだけが静かに揺らめいていた。何気ない会話の中だったのは覚えている。少しだけセアラが驚いてそれから、そうなんだ、とそれだけ言って少し気まずげに笑ったのも。
ナテアは夜目が利く方だった。それでなくとも互いにベッドから手を伸ばし合えば届いてしまうほどの近さだから、小さな窓から入り込む星明りとランプだけでも相手の顔を伺うことができた。
細まった目が弧を描き、口角が軽く持ち上がって。唇はぴったり閉じたまま、緩やかに笑うのだ。
「――声、掛けなくてもいいの?」
「え、ああ……、そうだった」
「何ぼーっとしちゃって。そんなにびっくりしたの?」
「まぁ……そんなとこ」
肩をすくめながら曖昧に言うとセアラが笑った。いつものように、穏やかに。
「友達か?」
そう問いかけられてナテアはあわてて顔をあげた。気を取り戻したのはクラウスの方が早かったらしい。
「うん、セアラよ」
頷きながらナテアはセアラの横に並ぶように移動する。視界の端でクラウスがセアラに手を差し出すのが見えた。
「俺はクラウスだ。よろしくセアラ」
「セアラよ。クラウスのことはナテアから話に聞いてるわ」
にこやかに二人が握手する。別にそれはなんでもない事であるはずなのに、その様子はナテアにとってなんだか不思議な光景だった。そうナテアがもやもやした気分でいると、クラウスが声を投げかけてきた。
「――こいつはレイモンド。俺の友人だ」
「よろしく、ナテア」
「こちらこそ」
紹介されてナテアもクラウスの友人だという青年と握手を交わす。
改めて考えてみれば、クラウスが友人と呼ぶ相手とこうやってきちんと挨拶などしたことなかった。クラウスが知ってるならナテアも顔見知りで、それが反対の立場でも変わらない。それが当たり前のことだとそう思っていた。だってクラウスとは幼いころからずっと一緒にいることが多かったから。
でもそれはヴィルデという小さな町にいた時のことで、今は互いに別々の暮らしがある。知らない友人、暮らしがあってもおかしくない。
そう思うとナテアは胸がすっきりするのが分かった。
少しだけ寂しい気持ちがあるが、それは親離れ、子離れと言うことがあるように、家族のような存在のクラウスが遠い場所に行ってしまうような気がしてしまうからだろう。まあ、この場合は兄弟離れというのかもしれないが。
実際、本当の家族ではないからこんなことを思うのは身勝手かもしれない。それでもクラウスにも、自分と同じような気持ちに少しでもなってくれていたら、と考えてしまって。
胸がすっきりするのと同時に知ったのは、離れてしまって気付くこともあるのだということだった。
「クラウスのこんなに驚いた顔を見るのは初めてだ」
「初めて?」
ナテアが傾げながら問うと、クラウスの友人というレイモンドが頷いた。
「ああ、普段は真面目で堅物、さっきみたいな間抜け面は絶対に見せないからな」
「ええっ? あのクラウスが?」
声を上げてナテアが驚くと、目を細めたレイモンドが軽く口端を上げた。
「どうやらその驚き方を見ると、そうでもないらしい」
レイモンドは見た感じ、同じくらいか少し下の年ごろだろうなと勝手ながら予想していた。でももしかすると自分たちよりも年上かもしれない。
「おい、レイッ」
少なくとも大きな声で驚いたナテアや、照れたのか顔を赤らめてレイモンドの口を塞ごうと背後から腕を回すクラウスより、年齢はまだ分からなくても中身は大人だろう。
足元を子供たちが走り抜ける。路地は馬車が走るとはいってもそんなに広くはない。ぶつからないようにナテアたちは道端へ移動した。
「ところで」
道沿いにひしめき合うように並ぶ家の壁に背を預け、ナテアが声を上げた。
「どうしてクラウスはここにいるのよ。王都じゃないの?」
「仕事だよ。護衛のな」
まだ照れが残っているのか、ナテアの問いにクラウスの返事はいくらか素っ気ない。
「護衛? へぇ、すごい」
が、気にせずにナテアは驚いた顔でクラウスを見上げた。
クラウスが騎士になるといって孤児院を出てから数年。実際、どんなことをしているのか、ナテアは詳しく知らない。
思い返せば、時々孤児院へ帰ってくるときも買い出しや畑の手伝い、傷んだ館の修復、子供たちの相手……といったことだけ。会話も自分ばかりが話をして、クラウスは聞き役にてっするのが常だった。
そうなると先ほどのレイモンドの言葉もあながち全くの嘘とはいいきれない。
少し口悪いところもあるかもしれないが、クラウスは真面目で頼りになる。そして優しいのだと。
「まだまだだ。護衛とは言ってもただの歩兵。指示なんてのもほどんどないし、数のうちにも入ってないんじゃないか。まだこんなもんさ。とはいっても、仕事はきちんとこなしてるけどな」
まっすぐとした力強い目力は昔から変わらない。紡がれる声の低さと視線の高さはずいぶんと変わってしまったけれど。
眩しい。ナテアの瞳に映るクラウスの全てが。孤児院から出て働き始めた自分とは違って、地に足をつけてもう随分と先を歩くクラウスとは比べることなどできないかもしれないが。
勇ましく一歩踏み出したつもりではいたが、今もなお自分の先にあるのは濃霧で、深まりはしても晴れることはない。
クラウスの近くにいればその輝きで少しは前に進めるのだろうか。そうやってすぐ人を頼ろうと考えてしまう自分がいることをナテアは自覚している。そしてそういう自分の心の弱さが、情けない。
「……そう、頑張ってるんだね」
言ってから、向けられていた視線を自分から逸らしてしまった。ナテアの目の前にいるのは、よく知っているあのやんちゃなクラウスとはずいぶん変わってしまったように感じてしまって。
ナテアが視線を移した先――石造りの道路と家屋の隙間、その狭い隙間からは小さな雑草や野花が生えている。どこにでも見られる、ありふれたものだ。この辺りは道路幅が狭く、居住空間を広げるためか縦に建物が伸びているので陽当りがよくない。それなのに青々と風に揺られるその草は生命力にあふれていた。まるでヴィルデの、あの豊かな森に生きる草木と同じように。
「私も――」
ナテアによって小さく呟かれる声は、クラウスたちの耳に届く前に風によってかき消される。今はまだそれほどなのだ。でもそれでいい。
「私も頑張ってる」と次にはきっと胸を張って言ってみせるから。