はじまりの一歩
ローウェル家とはダールベルク王国にて名を連ねる貴族の家柄のひとつである。
貴族は王国の領土の一部を己の領土とし、運営や管理をしていく。ダールベルク王国というものの中に、領土というさらにいくつもの小さな国が出来上がっているのだ。ローウェル家もまた、ダールベルク王国、ウィンコット地方の領土を治める貴族であった。
ナテアはヴィルデの町からローウェル家へやってきて数日、まだ慣れない日々が続いていた。
「……はぁ」
ナテアは大きくため息をついていた。
片手は布を持って窓に押し当てたままで、吐き出した息のせいで窓が白く濁る。息が窓にかかるほど窓に近づいていたのか、それとも吐いた息が大きかったのか……おそらく両方だろう。
白くなった窓に布を強くこすってやればリズムよく音が鳴って、もとから綺麗だった窓はさらに透明さを増した。
「どうしたのナテア。朝からそんなため息ついて」
ナテアへと声をかけたのはナテアと同年代の少女だった。ナテアと同じかそれより下の少女は部屋に飾られている調度品をひとつひとつ手に取って、布できれいに埃などをふき取っている。
「セアラはため息でないの?」
「んー、ため息ついても仕事は減らないから」
揃いの服を着た二人はローウェル家の使用人として掃除をしている最中だ。黒い詰襟のワンピースに少しあせた白の前掛けは、ローウェル家での女使用人の基本的な服装である。
互いに少し離れて仕事をしているナテアとセアラは背を向けて会話をしていた。
「セアラって……前向きよね」
ナテアはセアラに背中でそう言いながらも手を止めることはない。あともう少しだと自分に言い聞かせながら、また出そうになったため息を今度は口を閉じてしっかりと飲み込んだ。
ナテアとセアラが掃除をしている場所はローウェル家の屋敷でも一番と広い広間であった。日が昇る前から始めた掃除は、昼前になってもまだ終わらない。もちろん手を抜いているわけではない。なんとはなしにナテアは窓が何枚あるかを数えようとしたが、十枚を超えた時点でやめてしまった。ちなみに窓一枚はナテアが両手を広げて端から端まで、それともう少し足した長さがある。なんとか腕を伸ばせば、踏み台を使わなくても届くくらいの高さなのが唯一の救いだ。
「セアラはあとどれくらいで終わりそう?」
膝をついて窓の下部分を拭きながらナテアが声をかける。しばらく間が空いてセアラが硬めの、神経質そうな声で返した。
「――私はもう少し。終わったらそっちを手伝う」
調度品の中には高価なものもばかりが並ぶ。ひとつひとつの値段を聞いたことはないが、それなりのものだというのは何となくわかるものだ。だから調度品の埃を落としたり拭いたりするのは体力よりも気のいる作業だったりする。もしも傷つけたり壊したりなどすれば、弁償はもちろん自分自身だからだ。
「だれか掃除のための魔法作ってくれないかなぁ」
上から順番で最後に下、窓を拭き終わったナテアはポツリと漏らした。ようやく残りは最後の一枚というところだ。外を見れば時間はもうすぐ太陽が一番陽の高くなる頃合いだった。
「あはは! なにそれ、そんなの考えるのナテアくらいじゃない?」
先に広間の調度品を拭き終わっていたセアラがナテアを手伝って窓の下部を拭きながら口をあけて笑い声をあげた。その様子にナテアが唇を尖らせる。
「そうかなぁ……画期的だと思うけど」
「それなら街の魔石職人にでも頼んでみる? 掃除用の魔石を作ってくださいって」
自分より年下の少女のニヤニヤとした笑顔がなんだか面白くなくて、ナテアは「もういい」と話を終わらせる。
最後の窓のナテアが拭いた部分は力が込められていたのか、まったくの曇りもなかった。
「どうして今日の広間の掃除は私とセアラのふたりだけだったんだろ? 屋敷も朝からずっとさわがしいみたいだし」
掃除が終わって用具をまとめつつナテアは広間の外に耳を傾けていた。普段――とはいってもまだ数日だが、広間の掃除は四、五人ほどで行っていたからだ。だが今日はたったのふたり。しかもこの後にもまだまだ仕事は続くからゆっくりと休憩なんてしていられない。
「今日は仕方ないよ。だって旦那様がお帰りになるんだもの」
「旦那様? そういえば昨日そういう話を聞いた気がする」
昨日の夕食時に話を聞いた覚えがあった。ただ使用人として働き始めたばかりのナテアにはそれがどんな意味を持つのかさっぱりで、ほとんどを聞き流していた。
「旦那様はね、ダールベルクの大臣のお一人なの。これまでで最年少でその地位に着いた方だからナテアも名前くらいは知ってはいるでしょ?」
「……アゼル様」
王都のすぐ隣に位置し、流通の要所であるウィンコット領を治めるローウェル家の当主であり、今セアラの言ったようにダールベルク王国大臣のひとりでもある。敬称でいえばウィンコット公爵、領民やナテアたち使用人は名称でアゼル様と呼んだりしている。
「そ。そのアゼル様が今日お帰りになるのよ。随分久しぶりに……ひと月振りくらいかしら」
「ああ、だからね」
ナテアは同じ目線の高さにあるセアラに顔を向けた。ひと月振りの主人の帰りとなれば、使用人たちが浮足立つはずだ。セアラと並んで屋敷の廊下を掃除用具をカラカラと鳴らしながら歩いている途中で、足早に移動する先輩使用人と何度すれ違ったことか。
セアラの説明に納得したナテアは丁度横を通り過ぎようとしていた先輩使用人におしゃべりを聞かれないように小声で頷いた。
「――旦那様ってどんな方?」
廊下を歩きながらナテアが聞いた。先輩使用人の姿はもうなく、周りに人は見当たらないので今度は小声ではない。窓の外には庭師が美しく広がる庭園で何やら作業をしているのが見えた。
「旦那様? そっか、ナテアはまだここに来て日が浅いのよね」
「そう、奥様以外の方々には会ったことがないから旦那様ってどんな方なのかなって」
ナテアがローウェル家に来て数日たつが、唯一会った家人はローウェル家の女主人であり、奥様であるセシリアだけであった。会った、といってもローウェル家へ足を踏み入れた最初の日だけ。ただ、近くにいるだけで周囲の空気が柔らかかったなとナテアはその時の様子を思い出す。
年齢を考えるとかえって失礼かもしれないが、奥様は可愛らしい人だった。しかしそれだけではない。一度だけといっても間近でだったからわかる。周囲に漂わせていた雰囲気は普通の女性では到底作り出せるものではなく、彼女は確かに屋敷を仕切る女主人なのだと感じさせられた。
一見だけすれば可愛らしい姿のセシリア。彼女の夫でもあるローウェル家の当主人は一体どんな人物なのかと素直に興味を持った。
ナテアが想像しているところに横で考えこんでいたセアラが悩みながらも言葉を選ぶ。
「えっと……一言でいえば真面目な方。模範的、ともいえるかな」
「真面目で模範的」
繰り返せばセアラが突然と勢いよく頭を振った。
「――それからとっても素敵なの!」
若いころは騎士であったローウェル家の現当主は騎士を引退するのと同時に当主の座に就いたらしい。それ自体は何も特別なことではなく、貴族の――とくに長男ならばよくあることだ。ただローウェル家の当主、アゼルは外見的なものや騎士として身についた引き締まった肉体、そして当主に就いてからの功績が彼を国内でも有名な人間のひとりにしたのだった。
すぐ横にいる、鼻息をあらくしているセアラもその影響を受けているに違いない。ナテアは相槌を打ちながら、誰からも絶賛され自分の当主でもあるアゼルの姿を思い浮かべた。
「……そういえばさっきからセアラはアゼル様のことばかり言ってるけど、ジーン様のことはどうなったの?」
「――へ?」
ジーン様とはアゼル様のご子息である。つまりはローウェル家の若き次期当主だ。
「私、アゼル様のことはよく知らなかったんだけどジーン様のことなら少しは知ってた。セアラがいっつも話してくるから」
「ちょっ……ナテアぁ」
狼狽した顔のセアラがナテアを見る。その際の、ほんのりと赤らんだ頬は疲れや風邪なんかとは違うものだった。
くすりと笑うナテアに、照れているのだろうセアラが足を速めて先に進む。髪の毛はまとめてあるので、のぞく耳が赤いのにはすぐに気付いた。ナテアはくすくすと笑い続けながらつい昨夜、他の使用人達が話していたことを思い出す。
「ね、今日は旦那様だけじゃなくて、ジーン様とナタリア様もお帰りになるって知ってた?」
「……へ?」
ピタリと歩みを止めたセアラが振り向く。また横に並んだところでセアラは再び歩き始めた。
「だから、ジーン様とナタリア様も帰ってらっしゃるって」
「ええ!」
「昨日の夜にほかの人たちが話してたの聞いたのよ。セアラは知らなかった?」
ローウェル家の長男のジーンとその妹のナタリア、アゼルと共に彼らも帰ってくるらしい。そうなればローウェル家一家が揃うことになる。知っている限り比較的穏やかだったこの屋敷中がざわめきたっているのはもしかすればそのせいかもしれない。
「わたし、掃除頑張る!」
横で唐突に意気込むセアラに苦笑いしたナテアは、口を閉ざし意識を外に面する窓に向ける。
見上げた空の向こうでは小さく鳥たちがついばみ合っている。緑は風で揺れ、外ののどかな様子はまるで普段と変わらない。
しかしローウェル家に来てあまり日はないが、それでも今日という一日は慌ただしく過ぎるだろうことは予想できた。