親子
まっすぐと伸びる廊下を奥へ奥へと向かって進む。館の主の居室というものは、大抵その建物の最も奥にあるものとされていた。ここでも例外ではなく、ナテアはラルスの部屋がある建物奥まで歩いていた。
丁寧に拭かれた廊下の床は、おそらく事件の後に集まってくれた町の人のおかげだろう。ナテアは泥の落ちてない廊下を眺めながら進んでいた。ここでは少し外へ出ただけで町中を歩く時よりも随分と汚れてしまうのだ。
廊下の片璧には外と室内を繋ぐ窓が並ぶ。そこからは広く、孤児院周囲の畑や放牧場を伺うことができる。
時折所どころでできしり、と薄く擦れてしまった床が軋む。いつものことだ。ナテアは軋む床を気にもせず、たどり着いたラルスの居室の扉を叩いた。
「――ナテアか、調子はどうだ?」
「もうすっかり。エルザさんがかかりっきりでお世話してくれたおかげで」
ラルスの部屋に入ってまず、すぐ目に飛び込むのは大きな窓だ。ナテアや他の部屋とは違い、ここだけ天井も高くなっている。
部屋の壁にはこれといった調度品や絵画は並んでいない。だが大きな窓から見える景色はまるで壁一面の壁画といえた。
ナテアの背丈の倍はあるかもしれない窓は、それだけでは一般的な格子窓であった。ただその大きさとそこから入る陽の光は、初めてこの部屋に入った人に、室内にいるはずなのにまるで外にいるような感覚を持たせるほどなのだ。
そんな窓のある部屋は今日のような晴れの日はもちろん、夜も月と天気次第では明かりがいらない。部屋に入ると、ラルスがソファに腰を深くかけた状態でナテアを迎えた。
「そうか。彼女がいたなら大丈夫だろう。あの世話にはわたしも何度か出くわしているからな」
「食事の様子をじっと見られるのは控えてほしいんですけどね」
ナテアは笑いながら言った。ラルスも以前のことを思い返したのか、わざと渋顔をつくってナテアに肩をすくめてみせた。
「やれ野菜を残すな、やれじっとしていろ……」
続けるようにナテアは言った。
「薬を飲みなさい、ちゃんと寝ていなさいってのもありますよ」
「……たまにここの主はわたしではなく彼女じゃないかと思うこともある」
言いながら顎ひげを撫でるラルスに、ナテアはくすくすと声をあげた。
「ふふっ、きっとそれだけみんなのことを大切に思ってくれてるんですよ」
いつだったか、子供たちか牛飼いのおじさんかがラルスと同じようなことを言って笑いあったことがあった。まさかここの主であるラルスもがそんなことを言うなんて思いもよらなかったが。
今のラルスの言葉とふと思い出した記憶がきっかけで、ナテアはついに堪えきれず笑い出してしまった。
「――前はよくエルザさんを困らせていたな」
ナテアは紅茶の入ったカップを手に、きょとんと瞬いた。
「そうでしたっけ?」
「ああ、クラウスもやんちゃだったがな。――ナテアは急にいなくなったりするもんだから……エルザさんがよく、ナテアは手をやいた子だったと言っていたよ」
懐かしむように笑うラルスにナテアは顔を赤らめる。さらには動揺したからか、気がつけばスプーン数杯もの砂糖を入れてしまっていた。
「ええ? そうでしたっけ? でももうずっと昔ですよ」
今よりもずいぶんと小さかったころ、ここはナテアにとって未知のもので溢れていた。
いいや、それはナテアだけではないだろう。多くの物を知る大人とは違い、幼い子供にとっては毎日が未知との遭遇なのだろうから。
随分と甘くなってしまった紅茶は、しかし思っていたよりもおいしい。目の前ではラルスが茶こしを持ち、自らのカップに紅茶を注いでいる。
ナテアの飲む紅茶もラルスが淹れたものである。ここでこそ当たり前のこどだが、主自らが紅茶を入れるなんてきっと他の屋敷では見られない光景だろう。しかもラルスが淹れる紅茶はとても美味いのだ。
ラルスが砂糖とミルクに手を伸ばしながら、ため息をつくように小さく呟いた。
「ずいぶんと昔、か……」
「そうですよ。だって、ホラ――」
そう言って、ナテアは立ち上がってみせた。よく見えるようにと、腕を持ち上げる。
「あの頃より成長したでしょ?」
普段はひとつにまとめて垂らしただけの髪、ひざ下のスカートにズボンをはいて動きやすくしていることが多い。
だが今は先ほどベッドから起き上がったばかりというのもあって、女性では一般的なくるぶし丈までのスカートである。髪もエルザが編みこんだおかげで、いつもの活発な少女は確かに女性として一歩近づいていた。
「……まだ意識は足りてないようだがな」
しかしそう思っていたのはナテアだけのようだった。なぜかあきれた瞳をしたラルスが、今度は小さくではなくはっきりとため息をついている。
その視線をたどって下を見れば立ち上がった際に持ち上げたスカートの裾、そしてそこからペティコートとさらに下にのドロワーズまでもがはっきりと姿を現していた。
「へ? ……あ」
スカートとズボンを合わせていることに慣れてしまっていたからつい、いつもの調子でやってしまった。ドロワーズとはズボンとも似ているが、しかし下着であった。
それを見せるということはもちろん言語道断である。幼い少女であっても、大人の女性であってもみな同じだ。
つまりは、ペティコートやドロワーズを見せることははしたない行動なのである。
ちかごろでは上流階級では美しく装飾されたそれらをあえて、チラリと覗かせることがあるという。だがそれは、今のナテアには関係のない世界の話だった。
「だが、そうか。私も年をっているはずか」
目を細めたラルスと視線が合う。くっきりと刻まれた目じりの皺はその目でいろんなことを見てきた、長く生きてきた人のあかしだ。
ラルスの瞳、すぐ下には深い隈があった。目じりにあるものと同じである、加齢と共に増えるものではない。ナテアが覚えている数日前にはなかったものだった。
疲れているのだろうと、ナテアは思った。疲労を表すその隈は、皺の増えたラルスをさらに年老えてみせる。気のせいか、普段は手本のようにまっすぐとした姿が、今は少し曲がっているとさえも思ってしまった。
「もう十七ですから。私も」
ナテアはラルスから手元へと視線を落とした。
あのころと変わらないのは……この手の中にあるカップ。それから――窓端にまとめられたカーテン、床を覆うカーペット、壁紙やテーブル一式、などこの部屋でも数えるのが大変なほどにある。
色あせてしまっているそれらに、変わらないのではなく変えられないのだという現実は誰だって気が付くだろう。
上流階級といっても、ラルスはこだわることはない。だからかもしれない。王宮とは離れた場所の領地で、お世辞にも豪華とは言えない生活を続けてこられたのは。
「十七か、早いものだな」
「でもまだまだ子供だっていうんじゃないんですか?」
ナテアやラルスの住むダールベルク国では二十歳からが成人だ。ただそれは、国が定める「決まり」なだけであって、仕事や結婚などに対する年齢的な制限は領地ごとによって異なっている。
すねた笑いを見せるナテアにラルスは空いた両手を組んでソファの背にもたれ掛り、声を低くしていった。
「そのままおとなしくしていれば、少しは利発に見えるんだが」
「……あの、そんな真面目に言われると何とも言えないです」
「――それで話って……」
ラルスが話題を変えたのは互いのカップの中身が空になったあたりだった。
「ナテアをここへ呼んだのは話があったからだ」
「これからの……?」
ナテアが問えば「そうだ」とラルスは首を振って頷いた。
ラルスが何と言うのかをナテアは廊下を歩いている間に予想していた。
部屋にいた時にエルザが孤児院の子供たちはもうここにはいないと言っていた。それならばと考えると、みんなは別の施設か、もしかしたらこの機に養子になった子もいるかもしれない。ナテアの次になる十二,三歳の子たちの中には、運よくいい話があったなら奉公にでた可能性もあった。
まだはっきりと聞いたわけではないがナテアにだって、それくらいの、おそらくの考えはつく。……それに、これからの自分自身のことも。
「それじゃあ私は――」
「ああ、ナテアにはローウェル家に使用人として出てもらうことになった」
「……そうですか、――え?」
聞き間違いかと思ってつい「え?」と聞き返してしまった。だがどんなに目を大きく見開いても、ラルスが今の言葉を言い直すことはなかった。
「あそこの領主とは知り合い――友人だ。今回のことを話したら、なにか力になれるかもしれないと言ってくれたんだ」
「それで使用人に……?」
「ああ、まだ幼い子供たちはウィンコット領内の施設に。上の子たちは神殿の施設で教育も受けさせてくれるそうだ」
ウィンコット領といえば、王都のすぐ横にあり、交通や商業などの要とされているところだ。確か現在は国の大臣でもあるローウェル家が統治している。
「――そんなことまで」
「近年のウィンコット領はますますの繁栄だけではなく教育や所領の整備なども進み、王都と並ぶとまで言われている。あそこなら安心だろう」
彼の領主はまだ四十前後の、ラルスから見ればまだ青い若造だ。そんな年下に対してこれほどまでのことを言うのだ、たいした人物なのだろう。
「でも……私はどうして」
「先ほども話していたようにナテア、お前はもう十七だ。クラウスも随分と前にこの町を出た……次はナテアの番だ」
「そんな、私はずっとここにいるんだと――。それなのにどうして?」
「彼は私の、数少ない友人だ。地位もあるし、なによりここより安全だ」
「安全……? それってもしかして私のことが――」
言いかけて、ナテアは口を閉じた。続けようとした先の言葉は長い間言わないようにしていたから。
ナテアがもごもごとしていると、ラルスがおもむろに立ち上がった。そのままラルスを見ていると、隣室へつながる扉まで行きドアノブに手をかけて中へ入って行ってしまった。
後を追うようにナテアも席を立った。隣室に入ってすぐの場所で、ラルスはある一点を見つめていた。どちらとも言葉を交わさない。違う、交わす必要もなかった。
「――私はずっとここにいるのだと思っていました」
指に馴染んだように嵌る指輪を撫でながら再度、ナテアは言った。
「私もそう思っていたが、現実は常に自分が思い描いた通りになるわけではない。だが何通りもある未来は選ぶことをできなくとも、踏み出した道をどのように進んでいくかは決めることができる」
「これからをどう進んでいくか、自分で……」
そんなこと考えたこともなかった。だが少し考えてみれば、とても当たり前なことだ。
「――娘もナテアと同じ十七の時に家をでた」
ナテアはラルスを見上げ、それから伸びる視線の先を追った。
「あの絵……」
ラルスの見つめる先には壁に掛かる一枚の絵画があった。椅子に座る二人の男女とその間に立つ少女。少女は女性と同じ金色の髪、男性と似た緑がかった瞳を持っており、それだけで三人が家族であることを示していた。
「もう二十年以上も前か。――そうか、不思議と昔のことではないと感じる時があったが、ナテアか。ずいぶんと似てきているな」
「そんなに?」
「ああ、私もつい若返ってしまったかと勘違いしてしまうくらいにな。――ナテア、お前は本当にフィオナとそっくりだ」
噛みしめていうラルスにナテアははっきりと頷いた。
「よく分かんないけど、でも母娘ですから」
「ナテアには本当にすまないと思っている」
ラルスはそう言って、ナテアに頭を下げた。突然のことに驚いたナテアが顔の前でぱたぱたと手を振る。ナテアの指に嵌められた指輪を見ると懐かしそうに目を見開き、それから申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ううん、今までが甘えすぎていたんです」
ダールベルク王国ではナテアと同年代のクラウスがもう一人立ちしているように、十七歳ともなれば働きに出たり結婚したりしていることがほとんどだ。たとえ未成年であっても、ナテアのように施設に居続けるのは珍しかった。
「だが……本来ならば今頃……」
「それ以上は言わないで」
強い口調のナテアにラルスは言いかけた言葉を一度、途中で止めた。止めて、ナテアの指もとへと視線を落とす。
「……その指輪を渡したのはフィオナの結婚式の時だったな」
言われて、ナテアは嵌っていない方の指で指輪に触れた。指輪を形作るのは本物の銀。嵌る石は壁に描かれた少女の瞳と同じ深緑だ。
指輪の以前の持ち主、ナテアの母のフィオナが嫁いだのはダールベルク王国の隣国であったエルハルト国王の元へであった。もう二十年以上も前だ。
「もうはっきりとは覚えてないけどとても幸せでした」
「幸せ?」
ラルスは伏せていた頭をぱっと上げる。
「まだここに来る前。今日のように晴れた日は、みんなにわがままを言って連れ出して、食事をしたりしたんです。大きな木の下で、湖のほとりで」
「そうか」
ラルスは浅く頷く。それからナテアの次の言葉にも静かに相槌をうった。
「だけどいつまでも過去を想うわけにはいかないから」
ナテアはラルスの視線を受けながら、こぶしを握った。
「だからおじい様、ローウェル家に行こうと思います。自分自身の、これからの一歩を踏み出すために」