傷跡のゆくえ
静まり返る部屋に、違和感を感じたのはお腹が満たされた後だった。
ナテアは三日、という久しぶりすぎる食事だったのにもかかわらず、口にした量は普段の朝食時ほどであった。もしかしたらもっと少ないかもしれない。だがせっかくの料理に申し訳ないとは思ってもそれ以上は入らないのだ。
手にする器の中にはまだほんのりと温かさを残すスープが半分以上。ベッドの中に座ったままのナテアはそれを見ながら「ふぅ」と息を吐いた。
「ありがとう、エルザさん。もうお腹いっぱい」
「そうかい、それならよかった」
ナテアはベッド脇の配膳に器を置くと、その手で満腹になったお腹をさすった。
お腹は減っていたがほんの数口で満腹感を感じた。眠っていたこの三日で胃が縮んでしまったのだろう。
それでも具沢山だが噛まずに飲み込めるように作られたスープはナテアの体を温め、果汁をたっぷりと含んだ果物はその体を回復させるようだった。
「あの、エルザさん……」
食事を終えたナテアが声をかけると、配膳を下げるために近くにいたエルザが顔を上げた。
「なんだい?」
「あのあと……」
食事の済んだナテアはエルザにこの三日間の出来事について尋ねた。そして尋ねてすぐに感じたのは嬉しさと、悲しさだった。
立っているエルザとベッドで腰かけるナテアの目線の高さはほとんど同じ位置にある。だからナテアは気づいた。すぐ目の前に立つエルザの唇が、かすかに震えたのを。
ヴィルデの町、孤児院と襲撃を受けた三日前。あれから今日にいたるまで何が起こったのか知らないナテアにエルザは一つずつ説明を始めた。
組織だった自警団を保有するクレナート領ヴィルデの町は一部を除き、ほぼ日常の姿に戻っている。襲われた店や屋台はすでに修復され、見た目だけでは元通りといってもいいほどだった。
だがその裏側にはまだ傷跡を残す部分も多々残っていた。荒らされたのも店や人家だけではなく、畑にまで被害は及んでいた。まるで綿密に計画を立てたようなそれは、見た目は別として今までの山賊とはどこか異なる動きのようである。日々の糧となる畑は無残にも踏み荒らされており、それによる町民の落胆は大きかった。特に、農業に携わる者の嘆きは、言うまでもない。
それでも三日たった今、日常の生活と共に町民もだいぶ落ち着きを取り戻していた。それは寝る間を惜しみ働く自警団のおかげであり、自らけが人の手を取る孤児院長のラルスのおかげかもしれない。
エルザの話にナテアは重ねた手でほう、と胸をなで下ろす。少なくともナテアが恐れていたことは起こっていなかった。壊れた建物はまた建てればいい。畑も、今から耕せば夏と秋の収穫になんとか間に合うだろうから。――誰かが傷つくより、うんといい。
「――よかった……本当によかった」
「子供たちもね、最後までナテアを心配していたよ」
下げた瞳を再び開いてエルザへ向ける。
「……子供たちはもうここにはいないのね」
ナテアは一呼吸の間をあけて問いかけではなく確信を込めた言い方で言った。
エルザがナテアを見返えした。彼女の表情は窓から差し込む逆光で陰っていたからか、今にも泣きだしそうに見えた。
「ここにいたい、そう言う子もいたんだけど」
「……そう」
つい先日の襲撃――あんなことがあったこの場所に、引きとどめることはしたくなかったのだろう。そう思うのはナテア自身が院長ならばそう考えるからだ。
唇を噛むナテアに、エルザが微笑みかける。
「ラルス様の取り計らいでほかの施設に……早いならもう着いてる頃合いかもしれないね」
「そっか……」
ナテアはただ相槌を繰り返した。無理やり笑顔を作ったような表情のエルザに、それ以外、かける言葉を見つけることはできなかった。
これからは溢れた活気が当たり前の生活から、それとは真逆の静かな生活になる。ナテアが知る限り、二度目の出来事である。ぽっかりと空いてしまった寂しさはそう簡単に埋まることはない。
それを表すように、「寂しい」と口にしなくとも表情が、声が、雰囲気がエルザの感情を伝えてくる。
互いに黙り込んだままの中、ナテアは励ますように笑顔を見せた。外を飛ぶ鳥だけは以前と変わらず、チヨチヨと歌うようにさえずっていた。
こんなにゆっくりと食事をしたのはいつぶりだろうか。たとえひとりであっても今までは耳を澄ませればざわめきが聞こえてきたのに。
正直、うっとおしいと思う時もあった。だからもういないと言われて寂しいと思うのは、きっとわがままなのかもしれない。
まるで揺らぐ瞳を隠すかのように、エルザは配膳を持つとナテアから顔を逸らした。
今では白髪の増えた彼女と出会ったのはまだナテアが七歳の時であった。エルザも白髪だけではなく肌を覆う皺など、今と比べたら驚くほどに少なかったときだ。見上げていたその姿を今では見下ろせるくらいの月日が流れている。
「――落ち着いてからでいい。ラルス様が部屋でお待ちになっているから」
十七歳。本来ならば、クラウスのように孤児院を出ていかなければならない。
「院長が?」
「あぁ。ナテアが落ち着いてからでいいとは言われていたけど」
しかしナテアには孤児院、いや、このヴィルデの町から出ることのできない理由があった。多くの町民たちと同じように、これから先もこの町から出ることなどないと思っていた。
「わかったわ」
「それでは……失礼いたします」
エルザは開けた扉の外に一旦、手に持っていた配膳を置く。続いてナテアに向けて、丁寧に深々と腰を折った。