木漏れ日の夢
広がる草原に動き回る二つの影があった。空からの日差しは雲に遮られることなく直接、その小さな二つに降りそそいでいる。
周りの草木はここぞとばかりに枝葉を伸ばし、風で揺れる花には甘い香りに誘われて蝶や蜂たちが集まっていた。時期はもうすぐ初夏を迎えるといったところである。薄手の服に身を包む二つの影はほんのりと汗をにじませながらも、子供特有の甲高い声を上げながら楽しそうに走り回っていた。
「かあさま! 見てください……ほら!」
まだ幼い少女が両手いっぱいの花を持ち、パタパタと走り寄った。向かう場所は草原にいくつか生える木のひとつ。かあさま、と呼ばれた女性はその木陰に用意された椅子に腰かけたまま、顔まで隠れるほどに花を持つ少女を笑顔で迎え入れた。
「まぁ、こんなに……綺麗ね。ありがとう」
花を手にしたまま少女が勢いよく抱き着いた。いくつか花が散り、少女と母親の服に花弁がつく。女性は周りを囲むように立っている者たちと比べて、いわゆる高級なドレスを身にまとっていたがまったく気にする気配は見せなかった。
「えへへ」
女性が浮かべるのは足元にいる少女に向けての愛情に満ちた笑み。
気温だけではない、あたたかな空気に周囲の使用人たちの顔も穏やかに緩んでいた。
「摘みすぎだぞ! そんなにあっても母さまが困るだろ」
母親に抱きついた少女の後ろに立ち、声を上げているのは少女と面差しのよく似た少年であった。少女より頭一つ分ほど背は高いが、まだ幼い子供である。
「ふふ、いいのよ。確かにたくさんのお花だけどこうしたら……」
女性は少女から数本、花を取り出すと器用に手を動かし始めた。
「わぁ……すごいすごい! かあさま、まほうみたいっ」
次々に編みこまれていく花はまるで魔法のよう。少女はキラキラと瞳を輝かせている。反対に少年は「ちぇ、ナティアーナばっかり」と唇を尖らせながら、面白くなさそうにそっぽを向いた。
そんな少年に女性の横に座っている男性が手を伸ばした。
「どうした、ぶすくれて」
「父さま……」
手を少年へと伸ばすのは、幼い兄妹と同じ空色の瞳を持った男性であった。その男性を父と呼ぶ少年は頭をなでられながら、甘えるように腰にしがみついた。
「ほら、お前にはこれをやろう」
女性と同じく、穏やかな雰囲気の男性は少年にそう言うと、ふいに腕を空へ向けた。
ちょうど真上には木陰を与えてくれる巨木。ふわりと舞い散る葉に指を向けると男性は呪文と共に口を動かした。
「鳥だ……!」
落ちて地にたどりつくはずだった葉が形を変え、本物の鳥のように空を自由に動き回っている。一通り人々の合間を縫うように飛ぶと、見た目は葉っぱでできた鳥は少年の肩に止まった。
+ + + +
あれは夢だと気づくのは、大抵が目覚めた後であった。
見た夢も過去の事実か、記憶から作りだした幻想か、判断は難しい。それに眠りの中に見た夢は、意図して覚えようとしなければ数時間後にはその内容を忘れてしまうほどに儚いものだ。実際、夢の詳細はすでにぼんやりとしていて、しかしそれすらもナテアの頭から抜けていく。
それでもはっきりと感じているのはたった今まで見ていた夢に対してのほんわりとした懐かしさだった。
規則正しく組み合わされた木目調の天井。少しだけ色あせたそれは自室の長年見慣れたものだ。
ナテアが薄らと開いた瞳でぼうっとしたまま天井を見ていると不意に、髪がなびいた。顔にかかる髪にむずがゆさを感じて横を向けば、開いた窓から緑の空気をまとった風が一気に部屋へと舞い込んだ。
「――あらあら……いつの間に」
ナテアの耳に聞きなれた声が届いた。
しわがれたその声は孤児院での母親代わりでもあるエルザのものであった。エルザはまだナテアが眠っていると思っているのだろう、その声は静かな部屋でもほんの囁いているくらいにしか聞こえない。
窓へと顔を向けているナテアが後ろ耳でその気配を感じていると、エルザが開いた窓を閉じるためか、ナテアの前に姿を現した。身じろぎをすると布ずれの音が聞こえたのか、エルザがナテアに振り返った。
「ナテア、寒かっただろう? 起こしてしまったね」
「……ううん、その前に目が覚めてたから」
頭がぼうっとしている。まるで眠りすぎた時のように。でも声は意外とすんなり出た。
体を起こそうと肩肘を支えに上半身を上げる。暖かな上掛けから急に体を出したからか、ひんやりした。
「あぁ、ほら」
寒い、というのが顔に出ていたのだろう。エルザは戸棚にあるカーディガンをとりに行くと、ナテアの肩に羽織らせた。
「なんだか……体が」
――だるい。首や背中、腕も足も全てにだるさを感じる。風邪のときや筋肉痛とも違う体のだるさに、ナテアは小首をかしげた。
「なんせ三日も眠ってたからねぇ。体が強張ってるんだよ」
「え……?」
エルザの言葉を聞いて、瞬間、耳を疑った。
あいにく、日付を確認できるものをナテアは自室に置いていなかった。だから頭ではすぐにはエルザの話を信用しなかったのに、体はエルザの話を信用したようだった。
「水分は眠っている間でもあげられたけど、お腹は正直のようだね」
ぐるる、とお腹の音がなった。
三日眠っていた――そう聞いたからか、突然お腹が空腹を訴え始めたのだ。
……長時間体をまともに動かさず、強張ってしまった筋肉。空っぽの胃から悲鳴を上げるお腹。
「本当に私、三日間も?」
ナテアはベッドの端に腰を下ろしたエルザに問いかけた。お腹に置いた手を見れば、どことなく前よりも骨ばっている気がする。
枕を背に、今度はしっかりと座ったナテアは茫然と両手を見つめた。
「三日……」
ナテアは言いながら、自身の指にはめられた指輪に目をやる。
ダールベルク国内ではほとんどの人が持っている魔石を飾りとした指輪。その指輪をじっと見つめる。――孤児院へ帰る途中の強い風、荒れ果てた室内、見慣れない男たち、震える子供たちとアベル……そして四方からの魔法に、うなる炎。
頭の中で高速に浮かび上がる映像。ナテアは短い間ですべてを思い出すと「あっ」と声を上げた。
「聞きたいことがたくさんあるだろうけど、とりあえずは食事をとってから」
見つめていた両手から視線をそらし、顔をエルザへと向けたナテアは開いた口を閉ざした。極限にまで達したからか、今ではお腹の音は止み、ただ時折思い出させるように小さく鳴るだけである。
恐らくナテアの考えていることが分かっているのだろう。それでも今ナテアの口を遮ったのは、ナテアをいたわるために違いない。それが分かったから食事を用意すると言ったエルザにナテアは素直に頷いた。