いいこと
神殿内にある中庭。
足音を立てないようにエルミーラはそっと小走りで走っていた。まだ夏ではないが暖かな季節に不似合なマントとフード姿できょろきょろと視線を彷徨わせながら。
風でそよそよと周囲の枝葉が鳴っている。中庭から壁を隔てて、外側は生活をする街の人々がたくさんいることだろう。
しかし中庭から感じることができるのは人々のざわめきや煙突から上がる煙、といった気配だけ。
ゆったりとした空気がこの街の神殿を覆っていた。
そんな中、姿を隠すような恰好のエルミーラはまるで不審者のようで、時々すれ違う神官たちはぎょっとした様子でその背中を見送った。――犯人がエルミーラだとわかると「またか」と笑いながら。
「――あ! 見つけましたよエルミーラ様! いったいどこに行っていたんですか?!」
エルミーラのいる中庭ではなく、近くの建物から大きく声が響く。その声を聞き、しまった、とエルミーラは足を止めた。
「あ、あら。誰かと思えばナタリア? 私のことはエミーと呼んでって言ってるじゃない」
「なーにを言ってるんですか! エルミーラ様っ」
「……今日は天気が――」
「は、な、しを逸らさないでください」
「分かってるわよ……」
しゅん、とうなだれ気味のエルミーラのもとへナタリアと呼ばれた少女が走り寄った。はぁ、とナタリアが一呼吸置く。顔には春の日差しのせいだけではない、幾筋の汗が流れていた。
「――あと少しで王城なのですから、少しはじっとしていてください」
ピシ、とナタリアが言った。
外とは違い、建物の中はいくらかひんやりとしている。石造りである神殿は、いたるところに魔石が埋め込まれ、夏は涼しく冬は暖かい。魔石からの魔法の効果で、王城も同じ造りである。
「でも、直ってよかったでしょ? それ」
「う、それは……」
城からの使者ということで、エルミーラを含む一行は神殿内に部屋を与えられていた。
そして今、二人がいるのはその部屋の中でも最も豪華なエルミーラの部屋であった。
エルミーラとナタリアが話す横で使用人たちがお茶の準備をしている。部屋の中は二人の話声と、時折なるカチャカチャという茶器の音だけだ。
「そのネックレス、ジーンからでしょ? 久しぶりの再会なのに壊れたままじゃ悲しいじゃない」
「……エルミーラ様」
口ではうるさく言うナタリアだったが、先ほど受け取ったネックレスを見る顔はとても嬉しそうだ。
エルミーラはそんなナタリアに目を細めながら、テーブルに置かれたお茶に手を伸ばす。こくり、とひと口飲むのを見計らったようにナタリアが言った。
「――店でいいこと、ありましたか?」
「え?」
エルミーラは視線をカップから上げる。ナタリアと目があった。
「なんだか楽しそうな顔をされていたので」
ナタリアの言葉から思い浮かんだのは少し話しただけの少年。たぶん年は同じくらいだろうか。
最初、店に入った時は彼の赤い髪が目を引いた。しかしその後はそれ以上に鋭い視線が。
エルミーラの銀髪を見ても変わらなかった態度は、はたからは無礼であると言われるだろう。でも見た目、身分に違わず接してくれたことが珍しくて素直に嬉しかった。
「ナタリアにそっくりな人を見たのよ」
「え、私にそっくり?」
首をかしげるナタリアに笑いかけながらエルミーラは再度、カップに口をつけた。
少しだけ冷めたお茶が喉を通る。
「……早くジーンに会えるといいわね」
「ありがとうございます。エルミーラ様もヴィルフリート様とゆっくり時間が取れればよいのですが」
そこでナタリアは口を閉ざす。
すでに使用人たちは部屋から出ており、会話が止んだことで室内は全くの静けさが訪れていた。
真面目な侍女であり、信のおける友人でもあるナタリアはエルミーラが話し出かけなければこのままの状態だろう。だがこの静けさも、今のエルミーラにとっては心地の良いものであった。
「――静かなここも、似てるわ」
独り言のようなエルミーラの言葉に、ナタリアは返事をしない。特に返事を求めていなかったエルミーラはナタリアに向けていた視線を下げる。
そしてまだカップに残るお茶を見つめ、なにかを思い出すように頬を緩めた。