噂
ミリアは自身の腕の中で眠るカリーナを慈愛に満ちた瞳で見つめていた。
神官見習いの少年が店から去り、次いでクラウスを含む宿泊客たちも一人、二人と席を立った後。食堂に残っているのは二人の客と遅めの朝食をとる宿夫婦のみだった。
「いやぁ、それにしてもカリーナは幸せ者だな」
並ぶように宿夫婦は座り、宿の主人でありミリアの夫であるグアンは客たちが苦笑いしてしまうほど、終始にやけた表情を振りまいていた。
「えぇ、まさか姫様がオルトゥスに参加されていたなんて。しかもその髪をカリーナのために抜いてくださったのよ」
カリーナの白い腕には空色のリボンと銀色に輝く糸が結ばれていた。
銀を纏った髪の持ち主はこの国の中では王族か王族の血に連なるものである。このことはまだ幼い子供を抜きにして、国民のほとんどが知ることであった。
髪自体にはなにかしらの価値があるわけではない。しかし、その髪の持ち主である王族が生まれてきたばかりの平民の幼子に自身の髪を与えるという行為に価値があるのだ。
「その姫様っていうのはエルミーラ様だろ、きっと」
「あら、どうしてわかったの?」
おっとりとした口調でミリアが夫のグアンに尋ねるが、その顔は夫が答えるであろう内容を予測しているものであった。
「『変わり者のお姫様』だからな。まず俺らのような平民のオルトゥスに出てくる王族つったらあの姫様くらいしか思いつかねぇよ」
「変わり者って……。でも私はあの姫様好きよ? 清楚で、可愛らしくて、そしてお優しい」
娘を抱くミリアの頭に思い浮かんだのはつい今朝、目にしたばかりの可憐な少女。
ミリアにとって高貴な生まれの子女とは日に焼けていない白い肌に美しいドレスを身にまとい、想像もできないような豪華な生活を送っている、そんな方たちであった。それはミリア以外の平民も思っているいだろう共通した認識で、女性なら一度くらい夢みたことに違いない。
そしてミリアが見た少女、エルミーラは噂通りの、羨むほどに可愛らしい姫であった。
「俺も、そう思うぜ」
ミリアの言葉に反応したのはグアンではなく残っていた客の一人。宿夫婦の座るカウンター席から二つ、テーブルを挟んだ席に座る男であった。
「普通の貴族、良家の子女達は俺たち平民に近づくどころか、用がなければ屋敷からもお出にならないからな」
そして残るもう一人の客の男が前の客を引き継ぐように言った。少しばかり蔑みを込めた言い方で。
ほとんどの客が食堂から出払ってしまった今、ミリアのさほど大きくはない声もまだ居残っている者の耳に届くには十分で、それは逆もいえる。客たちの話を聞いたグアンが背もたれに肘をつく格好で後ろを振り返った。
「ご立派な屋敷の中で贅沢な暮らしをしても食ってけるってか? 羨ましいこった」
そういった後「ふん」とわざとらしく鼻を鳴らし、わざとらしく落胆する。
「ああ。きっと俺たちには想像すらできないような生活なんだろうぜ」
「はっ、言ったって俺らには関係ない話さ。それに貴族様にとっても俺ら、平民のことなんて関係ないんだからな――聞いたか? あの話……」
貴族と平民、主人と従者、富むものと貧しいもの――。人間の営みの中で必ず現れる格差。
羨んで、蔑んで、目に見えることのない壁は決して交わることがない。それでも。
いつの間にか会話の人数が増えたことに対し、ミリアは数度瞬きをして驚きを表していたが次の瞬間にはまたふんわりとした笑顔に戻っていた。
「――エルミーラ様のような方が増えたらこの国も変わるのかしら」
たとえ交わらないものであっても、近づくことならきっとできるはずだから。
ミリアの小さな声で呟かれた言葉を聞いたのは、眠そうに「ふわぁ」とあくびをするカリーナだけだった。
+ + + +
クラウスはイライラした表情を隠すことなく、馬をひきながら街道を歩いていた。
国内でも有数の人口を誇る街は比例して街の面積も広大だ。道はもちろん広い。しかし行き交う人の多さと町民の足である数多くの乗合馬車が街道いっぱいを覆っているためクラウスは馬に乗ることよりも歩くことを選択していた。
人が多い分、ざわめきも大きい。本来ならば話す内容も様々なのだろうが、だがしかし、道行く人々はある話題で盛り上がっていた。
「――おい、聞いたか、あの話」
「ああ、山賊が出たらしいな。今度はどの村だ?」
聞こえてきた声にクラウスがピクリと眉を上げる。
「いやそれが村じゃないらしい。ヴィルデの町だって話だ」
「ヴィルデ? って言やぁ、ここからそんなに遠くねぇじゃねぇか」
話しているのは、街道をまっすぐ外門の方向に向かっていたクラウス同様、外門へ続く道を歩く男たちであった。
クラウスは宿から街へ出て数度、この話を耳にしていた。イライラしていたのはこの話題のためで、さらにヴィルデの町と比べ物にならないほどの人混みがクラウスのイラつきを助長していた。
話題の盛り上がりようから考えれば昨日、今日の最近の話に違いない。大丈夫なのだろうか。クラウスは男たちの会話に聞き耳を立て、歩きながら思う。
「何かな、町だけじゃなく領館も襲われたんだとよ」
「は……。あそこの領館は孤児院になってんだろ? ……ひでぇ話だな」
声がはっきりと聞こえると思っていたら男たちはクラウスのすぐ近くを歩いていた。旅人か商人か、二人の男たちはそれぞれ背に荷物を背負っている。
「ああ、本当にひでぇ話だよ。ヴィルデの町の周りを治めるクレナート領主は領民に慕われる方だそうだしな」
「それなら俺も聞いたことがある。それに確か自警団もあった気がする」
「地方にしては珍しく訓練されたやつがな。ま、俺たちがどうこうできる事じゃないし、せめてもの救いはその自警団があったことだな」
小さな村、集落であってもその地を守る男たちがいる。ただし、正規の兵士ではない彼らの持つ武器は鍬や鋤といった農具で、戦うための訓練なんておよそ受けたことがない者たちばかりである。
クラウスの今いる街――王都に隣接する領、その中でも領主直轄の街には王宮からの騎士が駐在している。国境や交易が盛んな都市、王都の周囲の街は少なからず騎士に守られている。逆を言えば、その他の地は自分たちで盗賊や山賊から身を守らないといけない。
領民のことを想う領主ならば私兵に町を守らせるか、ヴィルデの町のように自警団を組織するだろう。しかしほとんどの町や村では守ってくれる兵士や自警団なんて存在しなかった。現実、襲われたり災害にあった際など、自分たちで何とかしなければいけないのだ。
クラウスは人混みをよけ、通りの隅までたどり着くとため息を一つついた。
通り沿いには様々な店が立ち並んでいる。それらの店の前で立ち止まっていたクラウスは馬の手綱を手ごろな柱に括り付けた。
その店を選んだのは何となくだった。いや、中に入ったのは歩く中で聞こえてくる話から耳を背けたかったからかもしれない。
「――いらっしゃい」
お客さんかい、という声はしわがれていた。店の中にはクラウス以外の客はおらず、騒がしかった外と比べると少しだけほっとできた。
「何か見るかい?」
そういって店の奥から出てきたのは予想通りに年配の男であった。
「いや……」
見ているだけだ、と言うクラウスに対して男は特に嫌な顔をすることはなかった。男はしばらくクラウスの様子をうかがっていたが、本当に見ているだけだとわかると椅子に座り眼鏡をかけなおした。
男は親指の爪ほどの石と細く先のとがった工具を手に、何やら作業をしている。
石はどこにでも落ちているようなものではなく、色のついた、加工にもよれば美しい装飾品になりうる石だった。
「気になるかい?」
「あ、いや……珍しくて」
声をかけられるまでじっと見ていたのだろう。男の手元から視線を上げると、目じりにしわを寄せた男と目が合った。
「ははは、確かに珍しいかもしれんな。普通、目にするのは作り終わったものばかりだからなぁ」
「すべて手作業なんですか?」
「ん? そうだなあ、こればっかりはどこも手作業で一つ一つ作る。ちなみに、ここにあるやつは全部、わたしが作ったものだ」
入口から反対側の壁まで数歩しかいらない店内をぐるりと見渡す。所々埃かぶっているここは正直清潔だとはいえないが、棚に飾ってあるいくつもの加工された石の輝きには埃かぶってなんかいなかった。
「……すごいですね。これ、この魔石を全部?」
「何十年も店を開いてたらこんなもんさ。まぁだが、ご覧のとおり、客足はいいとはいえんがな」
男の店は魔石を売る店だった。
どの国でも魔法は使うが、ここダールベルク王国では魔石を使用した魔法が一般的であった。
良質な魔石が豊富にとれること、そして魔法の威力として、魔石がその効果を膨大に強めてくれることなどが理由である。
魔石に関する仕事は多い。原石を見つける、装飾品へ加工する、最近は修理修繕を行う店も出てきたほどだ。
「そうなんですか……、こんなに綺麗なのに」
何の含みもない素直な言葉。しかしだからこそ、その言葉は作り主である男の作業する手を止めるのに十分であった。
男は手を止めたまま、魔石を眺めるクラウスから入口の戸へ顔を向ける。
「そろそろ、かな」
その声にクラウスが男を振り向いたが、言葉の意味を解することはできなかった。
変わらず店内はひとつ壁の向こうに大勢の人間がいることを不思議なほどに感じさせない。
しかしその平穏も、次の瞬間にはあっけなく壊されてしまった。
「――ようやくたどり着けたわ」
カラン、と外からの来店を知らせる鐘が店内に鳴り響いた。
「この辺りはいつも賑やかね。つい色んなところ、のぞいてしまったわ」
「だからお一人なんですか? はぐれでもして」
「んー、それもあるけれど。でもそれを言ったらナタリアにまたうるさく言われるわ」
「また、ですか」
カラカラと陽気に笑う店主は新たに現れた客と知り合いらしい。何度か会話のやり取りをしたと思ったら「少し離れます」と、店の奥へと行ってしまった。
残ったのはクラウスともう一人の客のみ。
頭の上から足元まで、すっぽり覆うようなフードとマント姿のその客は話し方から女であることは予想できた。
「この街の人?」
聞いたのは女だった。女はそれまで店主が座っていた椅子に腰かけると、フードの中からクラウスを見上げる。
「――――いや、立ち寄っただけだ」
いくらか間を開けたのは姿を見せない女に対して不信感を持っていたから。
その様子に女のほうは慣れたように肩をすくめてみせた。
「そう。ここは外と違って静かよね。でも窓から外を見るとあんなに人がいるの。不思議……」
女の視線に促されるようにして、クラウスも窓から外を見つめる。
特に会話もなく二人は窓から流れる風景を眺めていた。店主はまだ戻ってこない。
「外がうるさすぎて、だからこの店に入った」
沈黙を破ったのはクラウスのほうだった。それを聞いた女はクスリ、と笑う。
「……なにかおかしいか?」
「いいえ、ただ一緒だと思って」
何が、とクラウスが問いかける前に女は続けた。
「私も初めは偶然入ったの。そうしたら居心地良くって、この街に来たときには立ち寄ることにしてるのよ」
そうか、と頷こうとしたとき、目に入った「それ」にクラウスは開きかけていた口をつぐんだ。
女が店に入ってきてから今までの間、「それ」に気が付かなかったのは女を意図的によく見ていなかったからだ。でなければこんな近くにいるのにもかかわらず、気が付かないのはおかしい。
「――そんなにこの髪色、珍しい?」
「あ、い、いや……」
女の声に「はっ」と息をのむ。
声をかけられるまで、クラウスは女のフードからこぼれる髪を凝視していた。
珍しいもなにも、銀色の髪を前にして驚かないわけがない。たとえクラウス以外の人間であっても、同様の反応をするに違いない。
この女――ダールベルク王国では王族かそれに近い上流階級の子女はクラウスの反応をクスクスと面白そうに見ている。
その様子に少しだけ腹を立てたクラウスは「むっ」とするように眉間にしわを寄せた。
「……おもしろいのね、あなた」
女の言葉にクラウスはさらに威嚇するような視線を送る。
「ああ、違うの。勘違いさせてしまったのならごめんなさい。いい意味で言ったの、おもしろいって」
女は言いながらフードに手をかけた。
「大抵はひざまずくか、媚びるか。私じゃなくてこの髪を見て行動するの」
はずされたフードから、長く艶やかな銀髪がさらりと流れ出る。
「……何が、いいたい」
クラウスは低く唸った。
髪を直接目にしても変わらないその態度に女は嫌な顔をするどころか、嬉しそうに笑みを深める。
「いいえ、何でも。――――わたし、私はエミーよ。ねぇ、あなたの名前は?」
「……クラウス」
律儀なのか、クラウスは女の質問にぼそりと答える。しかし不機嫌な表情はそのままに、渋々といった様子で。
「――お待たせしました」
店主の男が奥から歩いてきた。聞こえてきた声の方向にクラウスは視線を向ける。
「注文の品です」
男の手には木製の小箱。片手に収まる大きさのそれを、女――エミーに手渡した。
「……短時間だったし、どうなるかと思ったけれどさすがね。ありがとう」
「いえいえ、これが仕事ですから」
エミーは小箱から魔石を取り出していた。ネックレス型の魔石を確認するように目の前にかざしている。
エミーは満足したのか、ひとつ頷くと店主に代金を渡す。
「また、こんなに……」
クラウスが宿に泊まった時の値段よりも数倍するであろう銀貨。店主は困ったように眉をへの字によせる。
「いいのよ。急がせてしまったし」
エミーはそう言うと椅子から立ち上がった。フードをかぶり直し、今度はしっかりと髪を中へ入れ込んでいる。
「またこの街に来たら寄るわ」
「ええ、どうぞ」
エミーはチラリとクラウスを見やる。そして店主が言うのを後ろ耳で聞きながら、外へと続く扉に手をかけた。
初めから最後まで、よく分からなかったが嵐のようだった。
しかし上流階級の子女であるのにもかかわらず、供もつけずに一人で出歩くなど信じられない。
クラウスはピッタリと閉じた扉を見ながらため息をつく。
「――いい子だろう?」
店主の言葉はクラウスの気持ちを知ってか知らずか。ただ相手は初対面の貴族の子女である。クラウスは曖昧に濁すかのようにぎこちなく笑みをみせた。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。