命名の日
木造のとある宿の一室。
ガヤガヤと人のざわめきが、鍵が閉まり密室となっている部屋の中まで届いている。
3本足のテーブルとそのテーブルの上にあるランプ以外、家具といえるものは年季のこもったベッドだけ。そのベッドの上で盛り上がったシーツがもぞりと動いた。
「ん……、うるせぇ」
いかにも不機嫌そうな声の男―――クラウスは薄い壁から伝わる人の声と朝日の眩しさでシーツから顔を出した。
部屋にある唯一の窓にはカーテンはなく、外の日差しがそのまま入り込んでいた。すでにランプの必要性はないほど外は明るくなっており、外には働いている町人たちの声が響き渡っていた。
ふわぁ、と大きくあくびをするとクラウスは立ち上がり、次いで背伸びをした。寝癖のついたまま靴を履き、ベッドの端で丸まっている上着を羽織れば準備は万端だ。
カタカタと窓が揺れる。
両開きになっている窓を開いてやれば、まだ少し夜の名残を残した空気が室内を満たしていく。当たる朝日にクラウスは目を細めた。
朝がどんなに弱くとも騎士として生活していくうちに朝の準備に慣れていく。クラウスもそれに当てはまっていた。
「ここを出ればようやく王都か」
クラウスが現在いるのはダールベルク王国、王都に隣接する領内にある町だ。領館のあるこの町は王都と近いこともあって、ラルスの治めるクレナート領よりもだいぶ華やかであった。
ついでに言うと人口もクレナート領よりもはるかに多く、そしてざわめきもクレナート領よりもはるかに大きい。
最も人の集まる王都よりは少ないとはいっても、比較的穏やかな場所で育ったクラウスにとっては居心地の悪さを感じることもある。
朝については体が慣れたが、うるさすぎるざわめきは時折クラウスをうんざりさせる。特に孤児院に帰った後は。
クラウスは窓から外を見下ろすとまだ少しだけ重たいまぶたのまま、一晩を過ごした部屋を出た。
クラウスは宿の部屋となっている二階から一階へと階段を下る。一階は食事のできる場所となっており、いくつものテーブルが並んでいる。
部屋を出た瞬間から焼きたてのパンのにおいとダールベルク国内ではどの地方でも馴染みのあるスープの香りがクラウスの鼻をくすぐっていた。それらに刺激されるようにクラウスの胃は空腹を訴え始める。鳴り出す腹を押さえて一階へ足を踏み入れれば、クラウス以外の客が数人、テーブルにつき朝食をとっていた。
「よお兄ちゃん! 朝食かい?」
調理場と一番近くの、カウンターとなっている席へ腰を下ろせばこの宿の主人が大きく声をかけてきた。
「あぁ、何でもいいから飯をくれ」
軽く腕を上げるクラウスに「まかせときな!」と主人は調理場へと姿を消した。
「な、なんだこれは……?」
クラウスは朝食が出てくるまでの間、何度かあくびを殺しながら王都までの旅筋を考えていた。
旅筋、とはいっても行きなれた道で迷うこともないだろう。ただ今回の孤児院への帰郷にて起こったことで、普段よりも周囲への注意力が落ちているかもしれない。
数年ぶりに再会した友人とのことで心が浮ついているのだ。
「なんだ、とはなんだ。見りゃわかるだろ、朝食だ。まぁ、ちぃとばかしいつもとは違うがな」
「ちぃとばかしか? これが?」
ははは! と笑う店主の横でクラウスは並べられた料理に目をやった。
もしや幻覚か、それともまだ寝ぼけているのかと、クラウスは腕で目をこする。しかし目の前の料理は一寸たりとも移動すらしない。
「今朝だけ特別の料理だとよ!」
首をかしげたまま、一口も食べようとはしないクラウスに同じく宿泊客らしき男が声を上げた。
「とくべつ……? どういうことだ?」
男の声にクラウスは周りに視線をやった。バラバラとテーブルに座る、宿泊客たちはクラウスと同様に朝食をとっているようだった。そして、どの客のテーブルにも―――
「……なんでこんな豪華なんだ?」
どのテーブルにも何皿にもわたり、朝食とは思えない豪華な食事が並んでいた。それはクラウスの知る一般的な宿の朝食であるパンとスープに比べたら何倍もの量と豪勢な食事であった。
「妻がな、もうすぐしたら帰ってくるんだよ」
「は……?」
宿の主人が聞いてくれよ、といわんばかりの様子で食事を始めたクラウスに話しかける。
訳のわからないクラウスに対して、周りの客たちは「また始まった」と苦笑いを漏らした。
「ようやくこの日がきたからな。いやー、一ヶ月は長かった」
「は、ぁ」
いつの間にかクラウスの隣に座り込んだ主人はクラウスの相槌を聞いているのか聞いていないのか、ひとりでペラペラと続ける。
――家を離れていた妻が帰ってきたのか?
理由はどうであれこんな料理が出てくるなら、今日泊まったことが偶然だとしても幸運に違いない。
クラウスは話し続ける主人に適当に頷いてみせながらも、意識は目の前の食事に向けられていた。定番のこんがりとしたパンにスープ、そしてよく煮込まれたカニンの肉や新鮮な野菜、果物。それらはまだ朝だというのにクラウスの腹の中に詰め込まれ、皿の上から姿を消していく。
クラウスの食いっぷりに主人は開いていた口を閉じるとおもむろに立ち上がった。
「いい食いっぷりだ。まだ料理はたっぷりあるからな。ちょっと待ってな!」
「いや、これ以上は……」
引き止めるクラウスに主人は空になった皿を片手に積んだまま豪快に笑った。
「料金なんて取りゃあしないよ。言ったろ? 今日は特別なんだ!」
そう言って調理場へと姿を消した主人にクラウスはますますわからないと眉を潜めた。
「今日は娘さんのオルトゥスなんだとよ」
テーブル席から聞こえてきた言葉に、クラウスは首だけ後ろに向ける。
話し出したのは宿泊客のひとり。そして宿の主人が調理場へと引っ込んだ食堂で、他の客たちもつられるように次々と話し始めた。
「初めての子のオルトゥスらしいからな。そう思えば、浮かれる気持ちは分からなくもない」
「だが、朝からその話を何度も聞かされるのは勘弁してほしいぜ」
「まぁな。でもよ、おかげで腹いっぱいの飯にありつけたんだからいいじゃねえか」
「ははは! そうだな!」
食堂のテーブルにバラバラに座る客たちはもちろん知り合い同士ではない。どの客もクラウスと同様、偶然この宿に宿泊したものたちばかりだ。しかしこの豪勢な朝食、という出来事に居合わせたもの同士の共通点がこの場を盛り上げている原因のひとつであった。
クラウスは皿のなくなったテーブルの上に唯一残されたスープでお茶の代わりとしてのどを潤しながら男たちの話を聞いていた。
ゴクゴク、と数度に分けて流し込むと空になったカップを卓上にもどす。クラウスは手の甲で口元を拭いながらポツリと言った。
「オルトゥス……、『命名の日』か」
クラウスが今いるダールベルク国ではオルトゥスという儀式が行われる。
儀式の内容は生まれて約一ヶ月の赤ん坊に神の祝福と正式な名前を与えるというもの。医術は日々進歩しているとはいえ、ダールベルクをはじめその他の国でも未だ幼児の死亡率が高い。特に生後間もない赤ん坊の。だからか、儀式には祝福の意味の他に「感謝」を含むといわれることもあった。
ダールベルクでは生まれて約一ヶ月後、赤ん坊の誕生を神が祝福するオルトゥスが行われる。
国によっては様々だが、大抵はダールベルクのように生後一月から半年の間でオルトゥスに近い儀式が執り行われている。
残念ながらその儀式の前に亡くなってしまう子も多い。その場合、その赤ん坊たちは神の元へと行き、再び同じ夫婦の間に、または夫婦に近しいものの子として生まれると信じられている。そして儀式のやり方は違っても、亡くなってしまった子への考え方はどの国も似たようなものであった。
オルトゥス、というのはダールベルクの歴史書にも載っているほど古い言葉で現在の「命名、誕生」を意味している。その古語といっていいほどの言葉が現在でも使われていることから、長年の浸透を疑うことはないだろう。
まだ話の続いている食堂内を、クラウスは特に口を挟むこともなく眺めていた。そんなクラウスの元へ、調理場から戻った主人が料理を持ってきた。
「待たせたな兄ちゃん」
そういってテーブルに置かれたのは手のひら大のカップに入った飲み物だった。
「今朝仕入れてきた果物を搾ったんだ。量はそんなにないが、食後の口直しにくらいにはなるだろ」
「そんな……、こちらこそわざわざありがとうございます」
クラウスは目の前にあるカップを口につけた。ドロリとした食感とともに感じた甘酸っぱさが、頬をじんと痺れさせる。
「おいおい、俺らは貰ってないぜ主人」
「そうだぜー、俺らにはないのかよ」
主人がクラウスに持ってきた果物の飲み物に対して、客の男たちが口々に声を上げた。
「ああ? 他のを何杯もお代わりしただろ。今日は特別であんたらが客だといっても、さすがに食いすぎだ。もうやるもんは残ってないからな」
「なんだよ、けち臭いな。なぁ?」
主人の言葉に男たちは悪態をつきながらも互いに笑いあっていた。それにどうやら何杯もお代わりしたことは事実のようで、ほとんどの客たちは「ま、これ以上出されても今はもう食えない」と腹をさすっていた。
「だがうまそうだな、それ。くそっ、もう少し減らしとけばよかったぜ」
クラウスに比較的近くに座る客が羨ましそうにクラウスの飲む姿を眺めていた。しかし男の目の前にも何枚もの皿が並べられている。しかも食べきれなかったのか、すでに冷めきっている料理は空になりきっておらず、食いかけのものがいくつも残っている状態だ。
クラウスはそんな様子でもまだ「うまそうだ」という男に内心、苦笑いを漏らす。
「まぁな」
そして男の言葉に答えるようにクラウスが言えば、カランと入り口のベルが鳴った。
外へとつながる宿の扉が開いた瞬間、外の喧騒とともにひとりの女性がその扉をくぐった。
まだ二十代前半だと思われる小奇麗な女性の両腕には小さな赤子がおり、安心しきったように寝息をたてていた。
「みなさん、いらっしゃい。……ただいま、グアン」
宿の客である男たちにニコリと笑いかけた女性は、宿の主人を見ると笑みをさらに深める。
「ミリア!」
「ちょっ、グアン! お客様の前で! それにこの子も起きちゃうわ」
ミリアと呼ばれた女性は恥ずかしそうに声を上げながらも、しかし嬉しそうに宿の主人であるグアンに抱きしめられている。
主人の話を朝から何度も聞いていた男たちはこの場に現れた女性が誰であるか、今更聞く必要はないだろう。彼らはそれまであげていた大声の代わりに、「やれやれ」といいながらも幸せそうな宿夫婦に暖かな視線を送った。
「あ、あぁ! 悪い、ミリア。……カリーナもごめんな」
グアンはミリアの腕に抱かれている赤子――カリーナに声を落として話しかけた。
カリーナはよく眠っているのか、父と母のやりとりに気づかないままスヤスヤと目をつぶったままだ。
そんなカリーナを蕩けそうな瞳で見つめるグアンはさっきまで宿泊客に大声を出したり笑っていた人物とはまるで似ても似つかない。ゴツゴツとした大きな手を赤子特有の柔肌に伸ばす。おそるおそると伸ばされた手に、ミリアがグアンをおかしそうに笑いながら見上げた。
「神官様、どうもありがとうございました」
肩を寄せ合った宿夫婦が声をそろえて言う。
ミリアが宿内に入るときに扉を開け、ともに室内へ入った人物は声をかけられるまでひっそりと扉の前に立っていた。その人物は線が細く、ひょろりとしている青年だ。身長はクラウスと同じくらいだが顔に浮かぶあどけない表情から、年齢はクラウスよりも下の十五、六才のように見える。
まだ青年、というよりも少年という言葉が似合うであろう彼は、宿夫婦に言われた「神官様」という言葉に照れたような、はにかんだ笑顔をもらした。
「いいえ、お気になさらず」
青年、いや少年は純白ではないが白を基調としたマントを羽織っている。マントの胸元にはダールベルクにおける神殿を象徴する紋様が刺繍としてあしらわれていた。
彼の着ている服は神殿にいる人間がきているものと同じように見えるが、もしかしたら彼はまだ正式な神官ではないのかもしれない。
王都へ戻れば「見習い騎士」であるクラウスは少年になにか近しいものを感じた。
「――それではわたしはこれで帰りますが、何かありましたら神殿へお越し下さい」
自分のことを「わたし」と呼ぶ少年の言い方はたどたどしいというよりも初々しい。ピシッと背を伸ばし誇らしそうに胸を張る少年に、この場にいる大人たちは目を細めてその様子を見ていた。
「えぇ、ありがとう、神官様」
ふふふ、と笑うミリアに少年はほんの少し顔を赤らめるとペコリとお辞儀をした。
「あ、あの。ではこれで」
顔を隠すように、下げた頭のまま少年は後ろを向いてドアノブに手をかけた。
「――あっ」
そのまま扉を開けて外に出るかと思われたが、少年はドアノブに触れたまま思い出したように言った。
クルリと振り返った顔には先ほどまでの照れはない。だが代わりに、キラキラとした瞳を投げかけていた。
「今回のオルトゥス、参加できてとても幸運でした。だから、その……、ありがとうございます!」
少年の瞳の先にあるのはあどけない寝顔のカリーナ。
そして眠るカリーナの小さな腕には水色のリボンと銀色に輝く糸が結ばれていた。