丘の上の孤児院
一度、孤児院へ戻って子供たちや院長たちの様子を見てから町へ戻ろうと思った。
今日の風はいつもより強かったし、下の子は泣いていたかもしれない。外にいた子は大丈夫だろうか? 畑の様子は?
……でもきっと大丈夫。アベルなんかは「へっちゃらだった!」と言いながらもう外に出ているかもしれない。
あぁ、でも畑は大丈夫じゃないかも。風の収まった今は院長やエルザさん、みんなで畑へ向かっているに違いない。
+ + + +
「……あと、少し」
ナテアは少し息を荒げながら、孤児院へと足を進めていた。
収まった風がナテアの髪をなびかせる。急いで丘を駆け上がったためか、一筋の汗が首に流れた。それを気にする様子もなく、ほどけた髪もそのままに、ナテアの視線はもう目の前にある孤児院だけを見ていた。
「――あ、れ? どうしたんだろう……」
いつもならば森から吹く緩やかな風に乗って、子供たちの笑い声が聞こえてくるはずだった。
帰りついたナテアはしん、と静まる孤児院を見上げながら小さく呟く。
周囲には先ほどの強風で横倒しになった畑の作物や、同じく風で散ってしまったらしい野花が確認できる。そして、町から丘、丘から孤児院へと繋がる道、その道先にある孤児院が普段と変わらずにあった。
――おかしい、ナテアは顎に手を当てながら辺りに視線を巡らせる。
郊外にある一般的なお屋敷ならこの静けさに違和感を感じなかっただろう。
だがここは孤児院なのだ。たくさんの子供たちが住まうこの場所は、静けさとは程遠く騒がしいと思ってしまうほどの賑やかさであるはずだ。
だが今は――
「なんで……?」
子供たちの声は聞こえてこなかった。
ナテアはそっと足を忍ばせ、孤児院の敷地内に入る。手のひらを館の窓に当て、外から室内を伺うが誰もいない。視線はそのままに、窓に触れていた手を口にやると眉を寄せる。
孤児院にいる全員がいなくなるということはこれまで一度もなかった。
院長などの大人やナテア、クラウスといった年長組が引率で森や町に行くことはある。だがそれは全員で、ということはなかったし、これからもないはずだった。何人かで町へ行けば、孤児院に子供や大人たちの何人かがかならず残る。それは大勢での移動の大変さなどや、掃除や洗濯といった仕事があるからだ。
非日常の状態に、ナテアは自然と体を緊張させた。
口を閉じたまま外窓から目を凝らして中を見ると、窓沿いに続く廊下の外窓と対面するように並ぶドアの1つが半開きであることに気が付いた。
「な、に」
子供たちの部屋であるそこは、まるで泥棒でも入ったかのようなありさまだった。
倒れた椅子やばらばらに散らばる本、そして引きちぎられた枕からの綿で床が埋まっていた。
チチチ……、と小鳥がさえずりながら空を飛ぶ。ナテアは小鳥に見向きもせず、壁に背を向けてしゃがみ込んでいた。
「なにが、何が起こってるの?」
ポツリとつぶやかれた言葉に答える者は誰もいない。ただ「何かが起こっている」ということは理解できた。
ナテアは顔をあげると今来た道に目を向ける。下へ、町へ行けば人がいる――だがその間に子供たちが、院長が、エルザさんを含めた人達がどうなるかは分からない。
「……盗賊?」
町で一番大きな館であるから、その考えもある。ヴィルデの町で暴れていた山賊の残党である可能性も高い。
盗まれるだけならいい。――だがしかし、万が一のこともある。壊された屋台に、踏みつぶされた果物、山賊たちの笑い声……。そして震え、怯える母子――最悪の場面がナテアの頭をよぎる。
「やだ……!」
ナテアはそう言いながら顔をゆがめると、壁に手を当てて腰をあげた。
目だけではなく、耳も澄ます。周りに注意を払いながらなるべく音を出さないように、中腰で辺りを探る。
孤児院の壁伝いに歩いたまま行くと、途中で壁が途切れる。直角に曲がる壁からそろりと顔をのぞかせ、誰もいないことを確認する。角を曲がると森が見え、遠くには普段家畜を放している場所が見えた。
「外には誰もいないのかな?」
どこよりも慣れた場所なのに、いやに広く感じる。そして、静かすぎるここは少し不気味だった。
息をひそめ、警戒したままだが特に今まで誰とも出会わなかった。
ふ、と一瞬だけ緊張の息を吐く。
――ぱきっ
「っ……!」
口を両手に当て、壁にぴたりと体を密着させる。足元には思わず踏んでしまった小枝。しかし、ナテアの意識は違う所にあった。
(声が、声が聞こえた?)
初めは踏んでしまった小枝に驚いたが、次に聞こえてきた音はさらにナテアを驚愕させた。
ナテアは重なる驚きのあまりに飛び出しそうになった声を両手でなんとか塞ぎこむ。そして、どくどくどく、と早鐘のなる心臓を押さえこむ。数回、深呼吸をして落ち着きを取り戻すと音の主――孤児院の人間ではない誰かを、体を縮めながら覗きこんだ。
(あれは……? だれ?)
遠く離れた場所に複数の、背丈や体格から男性と思われる人間たちがいた。孤児院脇の牧草地にいる男たちは町の人間ではないようだ。
孤児院の裏手で、森に面する牧草地であるそこは広々としており、真昼の太陽からの日差しで影となる部分はほとんどない。そのため、遠いとはいっても森育ちで、都会に住む同年代の少女たちよりも優れたナテアの視力と聴力は離れた男たちを、うっすらだが捉えることができた。
離れていても、目を凝らせば男たちの様子は見える。ナテアは孤児院の影から覗くように探りを入れる。
「……盗賊? 山賊?」
目を細め、男たちの姿をよく見ようと目を凝らす。はっきりとは分からないがある程度は見える。
「でも、あれは……」
賊なんかじゃない、ナテアは呟きながら首を傾げる。
今日、ヴィルデの町でみた山賊たちは、お世辞にも『まとも』な身なりではなかった。ボロボロの服に長くてべたついた髪、顔や体からは何とも言えない臭い……。悪く言えば汚らしい恰好、それがナテアの知る賊であり、実際に町でも見た彼らの姿だ。
しかし、ナテアの視線の先にいる男たちはそうではなかった。
ナテアの想像するボロ服を着た山賊や盗賊のような姿ではなく、おそらく清潔であろうと思われる身なりをしている。おそらく、というのはナテアの位置からはっきりと見えるわけではないからだ。
全員が黒いマントを羽織っており、頭の部分までをも隠している。体格で性別は判別できるかもしれないが、年齢などのその他は分からない。
「……なんだか、怖い」
やはり町へ降りた方が良かったかもしれないと、ナテアは自分自身の軽率な行動に後悔する。
数時間前の山賊たちとの恐怖とはまた違った恐怖。正体不明の不気味な集団は薄気味悪いものがあった。
「あ……!」
黒マントの集団から視線を奥にやると、小さくうずくまる人達がいた。
立っている男たちとは違い、孤児院のみんなは体を寄せ合うように座り込んでいる。いや、座り込んでいるのは院長やエルザさんたちなどの大人たちだけであって、子供たちはどうやら意識をなくしているようだ。
倒れた子供たちを庇うように抱きしめるエルザさんたちと、そのエルザさんたちの前で男たちを見上げている院長。院長は何かを訴えながら、みんなの盾になるように前列に座っていた。
(よく、聞こえない)
姿は見えても、はっきりとした声までは届かない。一体どのような状況なのかと、気になったナテアは足を進める。
孤児院の周りを囲むように生える植物に身を隠し、息をひそめながら近づいていく。
「……は、言いがかりではないのか?!」
「――をいっ――。証拠も――――」
「誰が……、誰の指示……」
距離が縮まるに従って、会話の内容も聞こえるようになってきた。なにか揉めるように、院長と男たちの1人が話している。
比較的、聞き取りやすいのは荒げた口調の院長の声。反対に黒マントの男は低く、余裕をもったような話し方なので近づいたといっても、聞こえない部分が多い。
全て、とはいかなくても会話の聞こえる距離だ。もし今、くしゃみなど、音を出せば気づかれる、ナテアはそれくらいの位置にいた。
「――さまの、――――だ」
ごくり、普段よりも速く脈打つ心臓に手を当てながらナテアは唾を飲み込む。院長と男の会話以外、空を飛ぶ鳥の鳴き声しか聞こえてこない。その静けさに、心臓の音や喉を鳴らす音までも聞こえるのではないだろうかとナテアは冷や汗を流す。
「まさか!」
今までにない院長の声にナテアはびくり、と肩を揺らす。驚いたのはナテアだけではない。院長の声で気が付いたらしい子供たちの数人がのろのろと体を起こしていた。
ナテアの位置からは目を見開いた院長の顔が伺える。男たちの姿は背中しか見えないため、どんな表情をしているかは分からない。
「これ以上、どう……! あの……すでに……」
「――は、――ない」
何を言っているのかと、身を潜めながらもできるだけ音を拾えるように集中する。……だから、ナテアは気がつかなかった。
黒いマントを羽織った人間はナテアの視界にいるだけではなかった。院長と男の会話だけに意識を寄せたナテアの背後に忍び寄る陰に。
かさり、とナテアのすぐ後ろでした布づれの音。それまで前にしか意識をやっていなかったナテアは音を聞いて瞬時に背後を振り向く。
「きゃっ……!」
振りかざされた黒い影に目をつぶった。