風の声
「……んもー」
ナテアは赤らんだ頬に手を当てながら、走り去る花売りの少女を見送る。先ほどは少女が突然言い出した言葉にどきりとさせられたが、やはりまだ子供だった。
少女が町の通りに立っている母親に抱きつくと、その様子に周りの大人たちは笑った。つい数時間前までヴィルデの町は剣呑な様子であったが、今ではそれが嘘のようだ。騒ぎを聞きつけて普段より早めに畑から帰ってきた男性たちや、行き交う人々を招き入れるために声をあげる商人たち、エプロンをつけたまま話しこむ女性たちの周りでは子供たちが走り回っていた。
ナテアの所にまで届いた笑い声も町を彩る飾りのように溶け込んだ。
「――なんだ? 何話してたんだ?」
少女とナテアの小声でのやり取りはクラウスとヴィルフリートには聞こえていなかった。クラウスは未だにほんのりと頬の上気したナテアに尋ねる。
「な、なんでも。何でもないっ」
言葉では言うが、まったくもってそういう風には見えない。
首と手を振り、あわてた様子のナテアにクラウスとヴィルフリートは顔を見合わせる。
「……ナテア?」
「わっ!」
突然目の前に現れたヴィルフリートに、ナテアはつい大声をだしてしまった。しまった、と手のひらで口を押さえるとすぐに謝りの言葉を告げる。
「ご、めん……。いきなりでびっくりしたから」
「い、いや、大丈夫だ。だがどうした?」
純粋にナテアを心配しているであろうヴィルフリートの顔を見ると、先ほどまでいた少女の言葉を思い出した。
『どちらが恋人ですか?』
「いやいやいやいや。ありえないよ」
そう、絶対にありえないことなのだ。今ナテアの目の前にいるヴィルフリートはこの国の王子という立場。加えて、年頃の女性なら一瞬で見惚れてしまいそうな整った顔。想像しなくとも、ヴィルフリートが王都へ帰れば国中の貴族のご令嬢達が放っておかないだろう。
「何ぶつぶつ言ってんだ……? 変な奴だな」
奇妙なものを見るような目を向けてくるクラウスにナテアは頬を膨らませ、わざと怒った顔を見せる。
「なによ、変って」
長い時間を家族のように過ごしてきたクラウスとは兄弟、友人のようであった。王都へと騎士見習いとして町を出たクラウスだが休暇には戻ってくるし、こうやってふざけ合ったりもする。――だが、それだけだった。
ナテアにとってクラウスは愛すべき家族で、それ以上の感情はないはずなのだ。
ただここ最近、たまに帰ってくるクラウスは見るたびに変わっていく。騎士としての訓練を受け、見える所ばかりではなくて、内面も成長しているのだろう。
「はぁ……」
ナテアは地面に視線を移す。
数年ぶりに再会したヴィルフリートもそうだ。ナテアの記憶にあるヴィルフリートは大人しくて弱虫な友人だった。それが今見る限りでは、まったくと言っていいほど変わっている。
「どうしたんだ?」
「さぁ……?」
頭上から聞こえてくる会話に、ナテアは顔をあげた。
いつの間にかなっていた見上げなければならいほどの身長差。見える景色も違うのだと思うと、ナテアにとってこの数年間の変化は戸惑うことしかできなかった。
「――私もう行くね。クラウス、時間があったらまた孤児院に来るでしょ? ヴィーも町を出るときには声かけてくれると嬉しい」
今日は会えてよかった、と付け加えるとナテアは孤児院に戻るため町の通りへと走り出た。
「あっ! おい、ナテア!」
「――クラウスっ、今度帰ってくるときは砂糖菓子、買ってきてね!」
町の人々の声で徐々に聞こえなくなる声。ナテアは2人に向けて大きく腕を振った。
「――またねっ」
最後にそう小さく聞こえたかと思えば、ナテアの姿は町中に消えていた。
+ + + +
町のにぎわいは背後に、辺りには畑があるがそこで働いているはずの人間はいなかった。日中、畑で働いている人間や町の周辺を警備している自警団は数時間前に起こった事件で町へ戻っていたからだ。
「――はっ、はっ、はっ」
普段であったならば休憩で畑の隅に腰を下ろし、雑談したり昼飯を食べている人々がいたはずだった。
しかしナテアは特に気にするわけでもなく、誰もいない畑の先にある丘とその丘の上にある孤児院へ向かって走っていた。
「はっ、はっ……、せっかく、会えたのに。なに、やってんだろ、私」
畑を過ぎ、丘の道の途中で徐々に速度を緩め、ついには足を止める。立ち止まると、ナテアは息を整えながら呟いた。
町から孤児院のある丘は目で見る限りでは遠くはない。が、緩やかとはいえ上り坂の続く道はきついものがあった。
ぽたり、とナテアの額から汗が落ちる。日差しが強く、乾いた地面の上に落ちた汗はすぐにしみ込んでいく。
額に浮かぶ汗を一度袖で拭うと、ナテアは今走ってきた方向を振り返った。
ナテアのいる場所はヴィルデの町と孤児院との中腹。周囲には収穫前の作物が植えてある畑がある。そして緑の茂る先には先ほどまでいた町が見渡せた。
大きいとも、都会とも、美しいとも言えない小さな町。それでもこの小さな町がナテアの全てだった。
町を囲む緑豊かな森や泉や小川、種類豊富な動物たちは故郷を思い出させた。幼いころの記憶は断片的になってしまったものもあるが、ほとんどは目をつぶれば思い出すことができる。
「ふぅ……」
ナテアは町を見下ろしながら胸に手をおいた。
いつかは好きな人ができて、結婚して、子供を産んで……、そう考えることもあるが『いつか』の話だ。今はまだこの丘の上で院長たちや幼い子供たちに囲まれて、という生活が続くと思っているし、ナテア自身がそれを望んでいた。
(このまま、このままがいいの……)
ナテアはずっと、とまでは言わないができるならば今の暮らしが続いてほしかった。
突然、握りしめた手を胸に置いたまま立っていると森の方から風が吹いた。
「――きゃっ!」
緩やかに流れていた風の急な変化にナテアは目を細める。結んでいた髪は紐がほどけてしまったために宙に舞い上がった。
森からたまに強い風が吹いてくることがある。一時的な強風だ。
季節や時間帯にもよるが、長い間続くわけではない。ナテアは過ぎ去るのを耐えるように地にしっかりと足をおき、腕を抱き込む。似たような風は何度も経験したことがあった。
「……っ」
しかし今回は思った以上に長かった。動物の甲高い鳴き声のような風の音が轟く。
丘の中腹にいるナテアの周りには風をさえぎる物は何もなく、また、目を開けることも呼吸をすることもままならない。直に当たり続ける強風は時に痛みをも感じさせた。
肌を切るような感覚に耐えかねたナテアは小さく口を開いた。
突然ぴたりと止む風。
ナテアが開いた口を閉じた瞬間、急激に風の威力が落ちた。
舞った金髪が太陽の光を受けながらふわりと背中に広がる。ナテアは深呼吸をしながら顔をあげた。
「……びっくりした。あんなに長く、珍しい……」
普段と同じ緩やかな風が草の上をすべる。先ほどの風で乱れた髪を梳きながら首を傾げた。
周囲の一刻前と変わらない雰囲気に、今起こったばかりの強風が偽りであったかのように感じさせる。しかし森から届いたのであろう大量の木の葉が、木のないはずの畑や丘へと続く道に散乱していることで偽りではないことを示していた。
ナテアは髪についた葉を払い落とす。見上げればすでに見える帰る場所。
子供たちはあの風に怯えなかっただろうか、怪我でもしなかっただろうかと思いながら一歩、足を踏み出した。
途中、振り返ればいつもと変わらない町並み。
「やっぱり後でもう一度町に行ってみよう」
互いに挨拶らしい挨拶ができずに別れてしまった。もしかするとクラウスはすでに町を出てしまったかもしれない。それでも数年ぶりの3人での再会なのだ。あんな形ではなく、笑って別れたかった。
「よし!」
走れば間に合うかもしれない。ナテアはそう思うと地面を蹴って走り出す。
(怒ってるかな? ……でも多分許してくれる)
ごめん、と言えば最初は怒っていても笑って許してくれる2人の顔が浮かぶ。
緩めた顔を引き締めると丘の上を一気に駆け上がる。
――孤児院の周りは風の音と鳥の鳴き声しか聞こえなかった。