始まりの始まり
ナテアは小さな足を一生懸命動かして走っていた。しかし一生懸命とはいっても幼子の足なので高が知れる。少しでも早く走れるようにと、ナテアの手は大人に引かれていた。周りはそんなナテア達2人を囲むように―――何かから守るように走っていた。
「大丈夫ですか、ナティアーナ様?」
ナテアの周囲にいる者たちは時折気遣うように声をかける。本当はもう走れない、と言いたいナテアだったがそれどころではないと分かっているため首だけで頷く。ナテアは「はぁはぁ」と息を乱しながらも文句のひと言も言わない。ナテアの手を引いている男はなにを感じているのか、握っている手をぎゅっと強く握り直した。
時間帯は昼辺り。ナテアはただひたすら走った。理由ははっきりとは分からない、いや、信じたくない。……分かるのは危険が迫っている、ということだ。
つい先ほどまで花を摘んだりしていたナテアは小奇麗なワンピース姿。怪我の痕1つなかった白い脚には木の枝や葉っぱなどでたくさんの切り傷ができていた。ただでさえ根っこや岩で走りにくい森の中にいるのだ、切り傷以外にも打撲の跡もできていた。
普段ならナテアが怪我をしたときにはどんな傷であろうとすぐに治療される。だが今はそれどころではない。……そのことは幼いナテアでさえも周りにいる者たちの様子で分かった。
ここら辺りで大丈夫だろう、と先頭を進んでいた1人が立ち止まった。それに次いで他の者も立ち止まる。周囲を警戒するように皆ナテアを中心に集まってきた。
ナテアの手を握っていた者は手を離すと、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。申し訳ございません、と言いながら傷の付いたナテアの脚に手をかざし治療していった。
「ねぇ、何があったの? 父さま、たちは?」
息を整えながら一体何があったのか、とナテアは説明を求めた。しかし大人たちはナテアの視線から目を逸らすように俯き、黙る。
「嘘だよね? 父さまたちが、死んだって……」
走り出す前に1度だけ聞かされた言葉。―――父と母の死。ここにいるも者たちをナテアのところまで連れてきた兄は1言だけそう告げると元来た方へと戻っていった。
言われた言葉に初めは冗談だと思った。慌てふためく、または怒ったナテアを見ようとしたのだと。
しかし兄が両親の死を告げるのと同時に渡された指輪を見て、事実なのだと気づかされた。
それでも嘘だと信じたかった。みんなを巻き込んでのいたずらだと。
ナテアは大人たちを下から覗き込むように見上げ、反応を見る。するとナテアの目線に合わせるようにしゃがみこんでいた男が小さく言葉を発した―――申し訳ありません、と。
お逃げください、ナテアを囲んでいる大人たちの誰かがそう言葉を発した。そして多くは語らないが、皆ナテアに向かって膝をつくと略式の騎士の礼をとった。礼を終えた後に今までナテアについてきた者達は、ナテアの前に屈んでいる1人をの残してばらばらに散らばっていった。
不安げな、涙を溜めている目でナテアは1人残った者に尋ねた。
「みんなどこに行っちゃたの? アル兄さまは? ……みんな死んじゃわないよね?」
「大丈夫ですよ。アルトリート様も他の者たちも強いですから」
男は皆を信じてください、と言うとナテアの手を握り締め、立ち上がった。
どこへ行くのかは教えられていない。いつの間にこんな森の奥まで来たのだろうか。もしここで1人になってしまえば幼いナテアは生きていられないだろう。
何がナテアの周りで起こっているのか、つい今朝まではあんなに平和だったのに。
状況を判断できずに困惑するナテア。ナテアは握り締められている手を強く握り返した。
まだ小さく儚げなナテアはその体をふるふると震わせながらも、それでもきちんと足を地に着け前を見据えた。
―――強くありなさい
いつも母がナテアに言っていた言葉だ。その言葉を思い出すと、震えている体に力をいれ、背筋をまっすぐと伸ばした。
いく日、日が過ぎただろうか。日が昇り、月が昇り、雨が降ればすがすがしい晴天の日もあった。
初めのころは疲れても寝たら元気になっていた。しかし不慣れな生活に加え、まともな食事はとれず子供にとっては辛い日々だった。
子供ではなくても辛いだろうに、ナテアと共に歩く男も励ましはしても弱音は吐かなかった。
夜も森の獣やその他に警戒するようにほとんど寝ていないのを知っていた。
たとえ獣が襲ってきても大抵は魔法で追い払うことはできるが、集団の場合ならば逃げるしかないからだ。
だからナテアも弱音を吐かず、また辛いときは母の言葉を思い出しながら兄に託された指輪を握り締めた。
いくつかの森を抜けると小さな町にたどり着いた。数日前は清潔なワンピース姿のナテアだったが今では汚れきったぼろぼろの姿になっていた。
ナテアにとって初めて来た町がこんな場合ではなかったらどんなにわくわくしただろう。ナテアたちは人目を気にするように町中を歩いた。
幸いなことに、中へ入るには検問所などもなくすんなりと入ることができた。
食料などの必要なものでも買うのだろうか、と男の手に引かれながら考える。
「―――ナティアーナ様、もう少しで目的地に到着します」
男はそういうと町を通り抜け、小高い丘を指差した。
町から少し離れた丘が目的地だといわれて、ナテアはどこ、と思いながら視線だけを彷徨わせた。
疲れ切っていたナテアは男に質問する気力が残っておらず、ただ言われるがまま、目的地である丘を登った。
あそこです、言いながら男は急に立ち止まった。
ナテアは地面の方へ下ろしていた視線を前に向ける。ナテアの視線の先にあったのは木に囲われた屋敷だった。屋敷の周りには畑と思しきものや、馬や牛といった家畜もいるのが見えた。
そしてその屋敷全体を囲むようにして奥には森があった。さっき通った町から離れたここの屋敷以外は緑で溢れているかのようだ。
一体誰がいるのだろう、私はこれからどうなるのだろう、とナテアは弱弱しく男へと顔をあげた。
「……私が一緒にいることができるのはここまでです」
ナテアを見降ろすようにして男が言った。
知らない土地で、また何が起こっているのかはっきりと分からない状況で幼いナテアがここまで来れたのはこの者がいたからだ。ナテアには兄が1人いるが、この者はもう一人の兄といってもいいくらい親しい間柄なのだ。だからどんなに不安になっても頑張ってこれたのに、と心では思っても口には出さなかった。
ぐっ、と唇を噛みしめ何かに耐えているナテアを見て、男はやり場のない気持ちに駆られた。
ナテアは男から視線をそらし、もう一度目的地だと言われた屋敷を見た。……すると先ほどは誰もいなかったはずの場所に1人の人間が立っていた。もしかしたら屋敷からナテア達の姿が見えたのかもしれない。
男はナテアの手を引き、屋敷の傍に立っている人間のところに向かった。近づくにつれて立っている人物の姿がはっきりと見えてきた。姿かたちから見て初老の男性だ。年に比べて背筋が真っ直ぐと伸び、服装や髪形なども整えられていて若々しく見える。
ナテアと共に歩いてきた男は初老の男性の目の前まで来ると、ナテアの手を握っていない方の腕を胸に当て、小さくお辞儀をした。よろしくお願いします、と男が言うのが聞こえ、分かった、と初老の男性が返事をするのが聞こえた。
話していた大人たちが突然ナテアに視線を下ろした。空腹や疲れ、眠気などでぼうっとしていたナテアはどきりとする。何だろうと思っていると未だナテアの手を握っている男が膝をついた。
「これからはここで暮らしてください」
「うん……」
「ここにいればナティアーナ様は無事ですから」
「うん……」
ナテアは幼いながらも物わかりの良い子だった。―――それでも両親のことを兄から聞かされた時の様子は当たり前だが物わかりの良い、とは言えなかった。しかしあれから数日たった今では元の物わかりの良いナテアに戻っていた。
男はナテアの小さな手のひらを見つめながら、今ばかりは年相応の子のように感情を露わにしてもらいたいなどと思う。
そして家族と近しい者だけが呼んでいた愛称で小さくつぶやいた。
「……生きろ、ナテア」
そして願うならばナテアが真実を求めず、新たな幸せを見つけてくれるように、と男は思った。