第18話:荒野が震える。スタンピードの予兆
フェンリスが砦の外に居候するようになって三日目の朝。
異変は、ルナの震えから始まった。
「……レン。こわい」
ルナが寝室に飛び込んできた。人化形態の目が涙目で、白い狼耳がぺたりと伏せている。小さな手がレンの袖をぎゅっと掴んだ。その手が、震えていた。
「怖い? 何が?」
「……じめん。ゆれてる。ずっと、ずっとゆれてる。すごく、おおきいの、くる」
レンは耳を澄ませた。
最初は何も聞こえなかった。だが、足の裏に微かな振動が伝わってきた。コポコポと水が揺れるような、断続的な振動。
地震ではない。もっと規則的だ。
大量の何かが、大地を踏みしめて移動している振動。
砦の外で、フェンリスが立ち上がった。
「ガウウウウゥゥゥゥ!!」
警告の咆哮。
フェンリスの巨体が北東を向き、蒼い瞳が地平線の向こうを睨みつけている。白銀の毛皮が逆立ち、冷気が爆発的に広がった。砦の周囲三百メートルが、一瞬で薄氷に覆われる。
レンは見張り塔に駆け上がった。セレナ、フィオナが後を追う。
荒野の北東の地平線。
空が、暗くなっていた。
雲ではない。砂塵だ。
地平線の端から端まで、幅数キロにわたって膨大な砂嵐が渦巻いている。その砂塵の下から、無数の黒い影が蠢いている。大地そのものが動いているようだった。
「……あれは」
「レン様!」
セレナの顔は蒼白だった。精霊と交信しているらしく、碧色の瞳が光っている。
「精霊が叫んでいます。『嘆きの荒野の奥地から、魔物の大群が動き始めた。数は計測できない。地を覆い、空を埋め、止まることなく南下している』と」
「数が計測できないってのは、何体くらいだ?」
「数万……いえ、それ以上です。精霊の感覚では、大地の振動から推定して五万体以上。空を飛ぶワイバーンの群れだけでも千体を超えると」
フィオナの表情が引き締まった。元Aランク冒険者の経験が、事態の深刻さを瞬時に理解させている。
「スタンピードだ。魔物の大暴走。魔力の均衡が崩れた時に、魔物が大量発生して一斉に移動を始める災害レベルの現象。数年に一度、辺境で発生するが……この規模は聞いたことがない。歴史書にも載っていないレベルだ」
砦の防衛センサー――ミスリルの検知塔が、赤い光を点滅させていた。
《警告:大規模魔力反応検出》
《推定個体数:測定不能》
《個体ランク:C〜S級混在》
《推定到達時間:約72時間》
「測定不能……」
三日後に、五万を超える魔物がこの荒野に押し寄せてくる。
砦は、その進路の真上にあった。
◇ ◇ ◇
緊急会議。食堂のテーブルに全員が集まった。
レン、セレナ、フィオナ、ルナ。
そして砦の外からフェンリスが窓越しに参加している。巨大な蒼い瞳がガラス越しにテーブルを見つめていた。
「選択肢は二つだ」
フィオナが荒野の手描き地図を広げた。
「一つ目、砦を捨てて南方に撤退する。スタンピードの進路から外れれば安全だ。二つ目、砦を拠点にスタンピードを迎え撃つ。ただし、後者は自殺行為に近い。五万体の魔物を、この人数で受け止めるのは——」
「にげたくない」
ルナが即答した。
テーブルの上に小さな手を置いて、真剣な顔で言った。
「ここ、わたしのおうち。レンのおうち。セレナのおうち。フィオナのおうち。みんなのおうち。にげたくない」
「……ルナ」
「おうちは、まもる。ルナ、つよいから。まもる」
レンは静かに頷いた。
「俺もルナと同意見だ。逃げない」
「レン様……」
「この砦は俺のキッチンだ。二度目の追放はごめんだ。……ここは誰にも壊させない」
フィオナが薄く笑った。
「ならば、戦おう。元Aランクの腕が錆びていないか、試すいい機会だ」
「私も力を尽くします。精霊たちも協力すると言っています」
セレナが杖を握りしめた。
「よし。三日間で、できることをすべてやる。フィオナ、防衛計画と陣地構築を。セレナ、精霊による偵察網の展開を。ルナとフェンリスは周囲の哨戒だ」
「了解」
「はい!」
「わかった!」
「俺は――料理を作る。決戦用の、とびきりの飯を」
フェンリスが窓の外で低く唸った。同意の声だ。
その日の午後。砦に来客があった。
王国軍の紋章をつけた騎士が、馬を飛ばして門前に到着した。馬は汗だくで、騎士の顔にも焦燥が浮かんでいる。
「失礼する! 王国軍第三師団の使者だ! この砦の責任者に、国王陛下の勅令を伝える!」
レンが門を開けて対応した。
使者は息を整え、巻物を広げた。
「国王陛下の勅令。『嘆きの荒野においてスタンピードの発生が確認された。規模は過去最大級。上位の魔物を含む混成群体。王国のすべての戦力に対し、鎮圧への協力を要請する。これは要請であり、義務ではない。だが、王国の存亡に関わる危機である』」
「全勢力に要請か」
「王国軍も総力を挙げます。正規軍二個師団、約千人。それに加え、冒険者ギルドのAランク以上のパーティ、各領主の私兵。……しかし正直に言えば、この規模のスタンピードに対して十分な戦力とは言えません」
使者はミスリルの城壁と、砦の外に寝そべるフェンリスを見て、目を丸くしていた。
「……失礼だが、ここは一体何なのですか? 王国の記録には、こんな荒野にミスリルの要塞があるとは記載されていません。しかもフェンリルが……」
「美食の砦だ。ただの料理人の拠点だよ」
「料理人……?」
使者は釈然としない顔で去っていった。馬を走らせながら何度も振り返っていた。
◇ ◇ ◇
夜。
レンは一人、キッチンに立っていた。
暖炉の火が赤く揺れている。
目の前には、地下ダンジョン最深部から持ち出した、あの紅い卵。
以前は「解析不能」だった。だがレンのスキルは、百を超える料理を生み出す中で着実に成長していた。
「味覚解析」
手のひらに光が灯る。情報が流れ込んでくる。
《素材名:竜帝の卵(品質:神級)》
《備考:伝説の竜帝が残した未受精卵。数百年に一度しか産み落とされない。調理に成功すれば、食した者に恒久的なステータス上昇を与える究極の食材。調理難度は最高ランクであり、温度管理、火入れのタイミングを一秒でも誤れば素材は消滅する》
《推奨調理法:要【万能調理】Lv.MAX》
「解析できた……。竜帝の卵か」
恒久的なステータス上昇。一時的なバフではなく、永続的な強化。
食べた者の基礎能力そのものを底上げする、まさに伝説の食材。
決戦の切り札になり得る。
レンは卵の殻に指先を当てた。ほのかな温かさが伝わってくる。中に封じ込められた、膨大な魔力の鼓動。
「三日後の決戦に合わせて、最高の一皿を作る。生涯で一番の料理を」
レンの瞳に、静かな炎が灯った。
「さて――何を作ろうか」
暖炉の火が、包丁の刃に赤い光を映していた。




