第17話:親フェンリル、娘の食生活を確認しに来る
その朝、砦が揺れた。
地震ではない。
空から、何かが降りてきたのだ。
「な、なんですか!?」
セレナが食堂のテーブルから飛び上がった。朝食の精霊トマトのスープが波打っている。
窓の外を見て、凍りついた。
砦の上空に、巨大な影があった。
翼幅は三十メートルを超えている。白銀の毛皮が朝日を反射し、蒼い瞳が地上を見下ろしている。冷気が渦を巻き、砦の周囲の気温が一気に十度下がった。窓ガラスに霜が張り、吐く息が白くなる。
フェンリル。
しかも、ルナとは比べ物にならない巨体。成体のフェンリルだ。
「ふ、フェンリルの成体……!? 伝説の……!?」
フィオナが剣に手をかけた。瞳孔が戦闘態勢に入っている。
「待て、フィオナ。攻撃するな」
レンが制止した。
なぜなら、ルナが大はしゃぎしていたからだ。
人化形態から一瞬で獣形態に戻ったルナが、砦の門から飛び出し、降りてきた巨大フェンリルに向かって全力で駆けていく。白い弾丸のように荒野を疾走し、巨体の前に到着した。
「ワフワフワフッ!!」
尻尾が千切れそうなほど振れている。きゅんきゅんと甘えた声を上げながら、巨大フェンリルの前足にすりすりと頭を擦りつけた。
巨大フェンリルが、低い声で応えた。
「グルルルル……」
巨大な舌がルナの全身をぺろりと舐める。ルナが嬉しそうにゴロンと転がり、お腹を見せた。
「……あの巨大フェンリル、ルナの親か」
レンは門の前に立ち、巨大フェンリルを見上げた。
成体のフェンリル――『冬嵐の主』。
伝説の神獣。一息で吹雪を呼び、一声で山が凍ると伝承にある。
その巨体は砦の城壁すら小さく見せるほどで、座っているだけで周囲の気温が凍てつく。
そのフェンリスが、冷たい蒼い瞳でレンを見下ろした。
「グルルルル……」
低い唸り声。
殺気ではない。だが、品定めをしている目だ。
――お前が、我が娘を拾った人間か。
言葉は通じないが、意味は伝わった。
研ぎ澄まされた蒼い瞳が、レンの全てを見透かそうとしている。人間としての力量を。娘に対する態度を。この場所がどういう場所なのかを。
レンは一歩も退かなかった。
「ルナの保護者ってわけか。ご挨拶が遅れたな。――娘さんは元気にしてるぞ。毎日三食、おやつ付きだ」
ルナはフェンリスの前足の間でゴロゴロ転がりながら、幸せそうに鼻を鳴らしている。以前の痩せこけた姿はどこへやら。白銀の毛並みは艶やかで、光沢がある。体つきもふっくらとして、筋肉もしっかりついている。
フェンリスがルナの体を鼻先で確認し始めた。
毛並み。体重。筋肉の付き方。魔力の状態。
鼻先がルナの腹に触れ、ぐっと押す。ルナが「ワフッ」と声を上げた。ぷにぷにの腹。
「……グル?」
フェンリスの瞳に、明らかな驚きが浮かんだ。
ルナの状態が、良すぎるのだ。
怪我は完治どころか、以前より遥かに健康体になっている。魔力量も成長期の子供としては異常に高い。毛並みの光沢は最高クラス。
フェンリスの視線がレンに戻った。さっきとは違う。品定めから、純粋な興味に変わっている。
「……食うか?」
「グル?」
「料理だ。ルナがいつも食ってるやつ。食べてみれば、理由がわかる」
◇ ◇ ◇
フェンリスは砦の外に座った。砦の中に入るには巨体が大きすぎる。レンは門の前に特設キッチンを設営した。
ミスリルの調理台を門前に引き出し、炭火の竈を組む。特大のミスリルの皿を三枚並べた。
「力の猛牛ステーキ、特盛。フェンリスサイズだ」
コカトリスのモモ肉を丸ごと一本、塊のままでまな板に据えた。五十キロはある巨大な肉塊だ。
【万能調理】で表面の筋を柔らかくし、岩塩と粗挽きの黒胡椒をたっぷりすり込む。掌で肉の表面を叩きながら、均一に下味を染み込ませる。
ミスリルの巨大鉄板を炭火で熱し、脂を引く。
ジュウウウウウッ!
肉を置いた瞬間、盛大な煙と脂の弾ける音が荒野に響いた。
肉の表面が飴色に焼き上がっていく。脂が炭火に落ちるたびに炎が上がり、肉に燻製のような香ばしさをまとわせる。
裏返す。同じように焼く。
中心部は赤みが残る絶妙なレア。外はカリカリ、中はしっとり。
「よし」
特大の皿に巨大なステーキを盛り付けた。
肉汁が滴る巨大なステーキからは、噎せるほどの香ばしい匂いが立ち上っている。
フェンリスが鼻を近づけた。
巨大な鼻がヒクヒクと動く。蒼い瞳がわずかに見開かれる。
一瞬の静寂。
フェンリスが、ステーキに口をつけた。
巨大な顎が肉を噛み切る。一口で、人間十人分の肉が消えた。
咀嚼。
フェンリスの動きが、止まった。
「…………」
蒼い瞳が、大きく見開かれた。
「グ……グルルルルルルル……」
低い唸り声。だが、これは怒りでも威嚇でもない。
伝説の神獣が、生まれて初めて味わう衝撃の味に打ちのめされている音だ。
フェンリスの尻尾が、ゆっくりと揺れ始めた。
最初は控えめに。だんだんと速く。
ブンブンブンブンブンブン!
巨大な尻尾が荒野の砂を巻き上げ、砂嵐のようになった。セレナが「きゃっ!」と悲鳴を上げ、フィオナが盾で砂を防ぐ。
「ちょ、尻尾! 砂が! 料理に砂が入る!」
「グルルルル!!」
もう一口。もう一口。もう一口。
巨大なステーキが、あっという間に骨まで消えた。
フェンリスが皿を舌で綺麗に舐め上げ、レンを見た。
「……グル」
もう一皿。
「やっぱりルナの大食いは遺伝だったか……」
追加のステーキを二皿出した。
二皿目にはローズマリーとタイムのハーブ焼き。三皿目にはガーリックバター。それぞれ異なる味付けで出した。
フェンリスは三皿すべてを平らげた。食べるたびに尻尾のスピードが上がり、最終的に砦の旗がはためくほどの風を起こしていた。
そして、レンの前にゆっくりと頭を下げた。
「グルルル……」
巨大な額が地面につく。感謝の仕草だ。
伝説の神獣が、一人の料理人に頭を下げている。
「……気に入ってくれたなら何よりだ」
セレナが食堂の窓から顔を出した。砂まみれだった。
「レン様……伝説の神獣を料理で手懐けるなんて……味覚鑑定士として千年の歴史を学びましたが、前代未聞です」
「手懐けたつもりはないんだが」
「手懐けてます。完全に」
フィオナが乾いた笑いを浮かべた。
フェンリスは砦の外に寝そべり、動く気配がなかった。
巨大な体を横たえ、目を細め、尻尾だけがパタパタと揺れている。満足げだ。
どうやら、定期的にここへ通って食事をするつもりらしい。
「……番犬が増えたな」
「番犬というか、移動要塞ですよ、あれは。一体で軍隊の戦力に匹敵します」
ルナが人化形態に戻り、レンの袖を引いた。
「レン! ママ、すっごくよろこんでた!」
「ああ、わかった。尻尾が物語ってたな」
「ママね、あのね、レンのごはんおいしいって! またつくってあげて!」
「……毎日来るつもりか?」
「まいにちくる!」
「食費がとんでもないことになるぞ……」
「だいじょうぶ! ママ、おなかいっぱいになったら、おとなしいから!」
「その『おなかいっぱい』のラインが問題なんだが」
荒野の空に、フェンリスの満足げな遠吠えが響いていた。穏やかな、低い音色だった。
美食の砦の防衛力が、また一段と跳ね上がった日だった。




