第16話:奴隷商人、返り討ち
その朝は、いつも通りに始まるはずだった。
レンがキッチンで朝食のパンを焼き、セレナが香草茶を淹れ、ルナが寝ぼけ眼でテーブルにつき、フィオナが無言でバターを塗ったパンを齧る。美食の砦の穏やかな朝。
異変は、フェンリスの咆哮で始まった。
「ガウウウウウゥゥゥゥ!!」
砦の外から響いた怒りの咆哮に、全員が凍りついた。
フェンリスが吼えることは滅多にない。あの母親狼は、娘のルナと違って感情を外に出さない。それが吼えた。つまり——
「敵だ」
フィオナが即座に立ち上がった。パンを置き、大剣の柄に手をかけている。目つきが変わっていた。食卓にいた女性の顔が、瞬時に戦場の騎士の顔に切り替わっている。
「行くぞ」
砦の見張り塔に駆け上がった。
そこから見えた光景に、レンは息を呑んだ。
砦の南側。荒野の向こうから、五十人ほどの武装した集団が接近してきていた。先頭に立つのは、黒い革鎧を着た大柄な男。その後ろに並ぶのは、統一された装備の傭兵たち。よく訓練された動きだ。素人の集団ではない。
そして——その集団の背後に、見覚えのある顔があった。
「あの男は……」
セレナの声が震えた。碧色の瞳が恐怖に揺れている。
「奴隷商人のジーク。私を追い回していた男です。この前ルナに追い払われた……まさか、傭兵団を雇ってきた……!?」
ジークが砦の前で足を止めた。拡声魔法で声を張り上げる。
「おーい! 砦の中のエルフ! おとなしく出て来い! 今度はフェンリルの子犬じゃ怖がらねえぞ! こっちには黒鉄傭兵団の精鋭五十人がいるからな!」
黒鉄傭兵団。Bランクの傭兵団として名が知られている。一人一人が経験豊富な戦闘のプロだ。五十人揃えば、小さな砦の一つや二つは落とせるだろう。
「レン」
フィオナが静かに言った。
「五十人か。相手にはBランク以上の実力者もいるだろう。だが——」
フィオナが大剣を抜いた。ミスリルの刃が朝日を反射して輝く。
「こちらには要塞と神獣がいる。負ける道理がない」
「それに——」
レンはキッチンに視線を戻した。
「戦いの前には、飯を食わないとな」
◇ ◇ ◇
十分後。
食堂に、四人分の「出撃前定食」が並んでいた。
メインは『力の猛牛サンドイッチ』。コカトリスのステーキ肉を香草バターで焼き上げ、黄金のパンに挟んだ。精霊トマトのスライスとレタスを層にし、上からチーズを溶かしてかけている。かぶりつけば、パンのカリカリとした食感の中から、肉汁とバターの濃厚な旨味が爆発する。
サイドに『鉄壁のスープ』。深淵キノコと根菜をじっくり煮込んだ、どっしりとした味わいのスープだ。一口飲むと、体の内側に鎧を着たかのような安心感が広がる。
「食え。バフは三時間持つ」
《『力の猛牛サンドイッチ』:攻撃力+40%(3時間)》
《『鉄壁のスープ』:防御力+35%(3時間)》
フィオナがサンドイッチを一口で半分齧った。目が鋭くなる。体に力が充填されていくのが、見ていてわかった。筋肉に張りが戻り、握った大剣が軽くなる。
「いいバフだ。これなら五十人どころか百人でも相手にできる」
ルナはサンドイッチを丸ごと口に放り込んだ。
「おいしい! ルナ、たたかう!」
「ルナ、噛め」
セレナはスープを飲み干して、杖を握り直した。表情は緊張しているが、逃げる気配はない。
「私は戦闘は不得意ですが……精霊魔法で援護します」
「よし。作戦はシンプルだ」
レンが指を立てた。
「第一段階。ルナとフェンリスが正面から押し返す。第二段階。フィオナが切り込んで指揮系統を潰す。第三段階。セレナが精霊魔法で残りを封じる。俺は砦から防衛タワーのミスリル弾で援護する」
「了解した」
「がんばる!」
「はい!」
◇ ◇ ◇
砦の門が開いた。
最初に飛び出したのは、白銀の嵐だった。
「ガウウウウゥゥッ!!」
ルナが獣形態で跳躍した。三メートルの白い巨体が宙を舞い、傭兵団の先頭に着地する。衝撃波が砂塵を巻き上げ、前列の五人が吹き飛ばされた。
「フ、フェンリル!? ガキじゃねえか!」
「ガキだと思って舐めるな!」
傭兵の一人が剣を振るう。ルナの毛皮に弾かれた。フェンリルの毛皮は鉄より硬い。バフ付きのルナの毛皮は、ミスリルに匹敵する。
「ワオオオォォン!」
ルナの氷のブレスが扇状に放たれた。地面が凍りつき、十人の傭兵が足を取られて転倒する。
その背後から、フェンリスが悠然と歩み出た。
成体フェンリルの威圧感は、次元が違った。体長八メートルの白銀の巨体が荒野に影を落とすだけで、傭兵たちの足が震え始める。戦闘のプロであるはずの傭兵が、本能的な恐怖で武器を握る手を失った。
「ば、化け物……! 聞いてねえぞ、成体のフェンリルまでいるなんて!」
フェンリスは吼えなかった。ただ、蒼い瞳で傭兵団を見下ろしただけだ。
それだけで、後列の十人が武器を捨てて逃走し始めた。
「逃げるな! 退くな! 金は払ってるんだ!」
ジークが叫ぶ。だが、残った傭兵たちの士気は崩壊寸前だった。
「第二段階——フィオナ!」
「行くぞ」
砦の門からフィオナが飛び出した。
バフ付きのフィオナは、もはや人間の域を超えていた。攻撃力+40%。元Aランクの実力に、レンの料理のバフが上乗せされた速度と破壊力。
大剣が閃いた。
一振りで三人の傭兵の武器が叩き折られた。二振り目で五人が地に伏す。三振り目で——傭兵団の団長が額に大剣の腹を押し当てられ、動きを止めた。
「降伏しろ。さもなくば、次は峰打ちでは済まない」
団長が震えながら両手を上げた。
「第三段階——セレナ!」
「|風の精霊よ、彼らの足を縛れ《ウィンド・バインド》!」
精霊の風が渦巻いた。残った傭兵たちの足元に風の鎖が巻きつき、一歩も動けなくなる。
砦の防衛タワーからはレンが操作するミスリル弾が、逃走しようとしたジークの目の前の地面に着弾した。砂煙が上がり、ジークが尻もちをつく。
「次は当てるぞ」
レンの声が見張り塔から降ってきた。
勝負は三分で決した。
◇ ◇ ◇
傭兵団は武装解除され、全員が砦の前に座らされた。
ジークはフェンリスに睨まれながら、泣きそうな顔で震えていた。
「た、頼む! 命だけは……!」
「セレナに手を出さないと誓えるか?」
「ち、誓う! もう二度と近づかない! 神に誓う!」
「神じゃなくてフェンリスに誓え。破ったら食われるぞ」
フェンリスが口を開いた。巨大な牙が月光に光る。ジークの顔が真っ青になった。
「フェンリスさまに誓います! 二度と! 絶対に! エルフには手を出しません!」
傭兵団は無傷のまま解放された。ただし、武器と鎧はすべて没収。ジークの所持金も「迷惑料」として没収した。
「……案外あっさり片付いたな」
「バフ飯の力だ」
フィオナが珍しく満足そうな顔をしていた。
◇ ◇ ◇
夜。戦勝祝いの宴。
テーブルにはフルコースが並んだ。
精霊トマトのブルスケッタ。コカトリスのグリル。深淵キノコのリゾット。デザートに魔力メロンのソルベ。
四人と二匹が食卓を囲んだ。フェンリスには外で特大のステーキを五枚用意した。
「セレナ。もう大丈夫だ。あいつらは二度と来ない」
「……はい。ありがとうございます、レン様」
セレナが涙をこらえながら香草茶を飲んだ。
「この砦は安全だ。俺とルナとフィオナとフェンリスがいる限り、お前に手を出せる奴はいない」
「……はい」
「あとロランドさんが来る時もいるぞ」
「まるいのは、たたかえないよ?」
「ルナ、それは言うな」
笑い声が食堂に響いた。温かい食卓だった。
だがレンは、一つだけ気になることがあった。
朝、奴隷商人の処理をしている時にフィオナが呟いた一言だ。
「『スタンピードが近い。低級の魔物が群れを成して移動し始めている。あの傭兵団も、本来ならスタンピードに備えるべき戦力だったはずだ』」
スタンピード。
大規模な魔物の暴走。何万体もの魔物が一斉に襲来する天災のような現象。
それが――この砦の近くで起こるかもしれない。
レンは窓の外の闇を見た。
嘆きの荒野の夜は、静かだ。
だが、その静寂の下で、大地が微かに震えている気がした。
「……もっと美味い飯を作れるようになっておかないとな」
料理人にできる備えは、一つしかない。




