第11話:温泉を"調理"してみた
「レン様、この砦の設備は素晴らしいのですが……」
朝食の席で、セレナが少し言いにくそうに切り出した。
今朝のメニューは黄金のパンと精霊トマトのスープ。セレナは三杯目のスープを飲み干してから、ためらいがちに続けた。
「お風呂が、少し……その……」
「ああ、露天風呂か。確かにまだ仮設だからな」
現在の露天風呂は、地下の温泉水を汲み上げただけの簡素なものだ。岩を並べて湯船にしているだけで、脱衣所もなければ仕切りもない。湯温も安定せず、朝は熱すぎたかと思えば夕方にはぬるくなる。
「レンは毎日あれに入っているのですか?」
「ルナと一緒にな」
「る、ルナちゃんと一緒……!?」
セレナの顔が赤くなった。碧色の瞳が泳いでいる。白い肌に朱が差すと、ハイエルフの美貌がいっそう際立つ。
「ルナは獣形態で入ってるから問題ないぞ」
「それでも! 私が入るとなると……その、人化するルナちゃんにはっ……!」
「わかった、わかった。改修しよう」
レンは苦笑して立ち上がった。
「せっかくだから、この砦にふさわしい温泉を作る」
「ほんとうですか!?」
セレナの碧色の瞳がぱっと輝いた。三百年生きたハイエルフが、こういう時だけ年相応の少女のような反応をする。
「ただの温泉じゃない。【万能調理】で"調理した温泉"だ」
「……調理、した、温泉?」
セレナが首を傾げた。フィオナも腕を組んだまま怪訝な顔をしている。ルナだけが目を輝かせて「おんせん! おんせん!」と食卓の上で跳ねていた。
◇ ◇ ◇
砦の東側。露天風呂の改修が始まった。
レンは腕をまくり、改修エリアの前に立った。頭の中には既に完成図がある。
まず、地下ダンジョンから温泉水を大量に汲み上げるポンプを、ミスリルで製造する。
【万能調理】の『精錬』でミスリル鉱石を成形し、パイプとバルブを一体成型。通常の鍛冶師なら一ヶ月かかる精密作業を、三十分で仕上げた。
「配管完了。次は浴槽だ」
浴槽は三つ作る。各浴槽に異なる鉱石を溶かし込み、それぞれ異なる効能を持つ温泉にするのだ。
「三種の温泉……面白いですね」
セレナが興味深そうに見学している。そばではフィオナが腕組みをしたまま無言で工程を見つめていた。表情はいつも通りクールだが、時折浴槽を横目で確認している。期待しているのがバレバレだった。
「一つ目。ミスリル鉱石を溶かした『美肌の湯』。肌がすべすべになる」
ミスリル鉱石を【万能調理】で極細のパウダーに精錬し、温泉水に溶かす。レンの手の中で鉱石が光の粒子に変わり、水面にゆっくりと注がれた。
水が銀色に輝き、ほのかに光を放つ。まるで液体の月光を湛えたような、幻想的な浴槽が出来上がった。
「二つ目。深淵キノコのエキスを加えた『回復の湯』。疲労が一瞬で消える」
深淵キノコを丁寧に煮出し、エキスだけを抽出する。苦味と雑味を【万能調理】の『下処理』で完全に除去し、旨味と薬効成分だけを凝縮した。
エキスを加えた温泉は、薄い琥珀色に変わった。ほんのりと森の奥を思わせる深い香りがする。
「三つ目。賢者草を煮出した『魔力の湯』。MPが回復する」
賢者草のエキスを加えた温泉は、淡い緑色を帯びた。清涼感のあるハーブの香りが心地よく漂う。指先を浸しただけで、微かに魔力が流れ込んでくるのを感じる。
浴槽はすべてミスリル製。保温性抜群で、湯温は常に最適に保たれる。磨き上げた銀色の浴槽が、陽光を受けてきらきらと輝いていた。
脱衣所は燻製した木材で丁寧に組み上げた。木目の美しいヒノキに似た木を選び、棚とベンチも完備。タオル掛けまで作った。
男女の仕切りは、高さ三メートルの頑丈な木の壁でしっかり区切った。目隠しは完璧だが、声は聞こえる設計だ。
「さらに……」
レンは脱衣所の横に、小さな東屋を建てた。屋根はミスリルの支柱に木の板を渡し、蔦を這わせた。風が通り抜ける開放的な造りだ。
「湯上がりに、冷たい飲み物を」
東屋のテーブルに、魔力メロンのジュースと、冷やした香草茶を用意する。ジュースはメロンの果肉を絞って氷で冷やしたもの。香草茶はペパーミントとレモングラスのブレンドだ。
「これで完成だ」
◇ ◇ ◇
夕暮れ。完成した温泉のお披露目だ。
空が赤く染まり始め、荒野の向こうに太陽が沈みかけていた。温泉からは白い湯気が立ち上り、夕焼けの光を受けてオレンジ色に輝いている。
セレナが最初の入浴者となった。
まず美肌の湯に足を入れた瞬間。
「ふにゃぁぁぁ……」
力が抜けたような声が、仕切りの向こうから聞こえた。
「な、なんですかこのお湯……! 肌に吸い込まれていく……!? エルフの森の聖泉でも、これほどの効能は……!」
セレナの声が裏返っている。三百年分の疲れが溶けていくような、そんな心地なのだろう。
「そりゃよかった」
レンは男湯側で回復の湯に浸かっていた。深淵キノコのエキスが全身に染み込み、体の芯から疲労が消えていく。昨日の改修作業で凝り固まった肩が、ゆっくりとほぐれていった。
「ワフゥ……」
ルナは獣形態のまま回復の湯に浸かっている。巨体がお湯に沈み、鼻先だけが水面から出ている。尻尾がお湯の中でゆらゆら揺れていた。白い毛並みが琥珀色のお湯に揺れて、なんとも幸せそうだ。
「ルナ、そっちは毛だらけになるから別の湯に」
「やだ……きもちいい……」
「まあいいか……」
仕切りの向こうから、セレナの声が続く。
「レン様! この美肌の湯、本当に信じられません! 肌が……肌が赤ちゃんのようにすべすべに……! 三百年前の肌に戻った気がします……!」
「三百年前の肌は知らないが」
「次のお湯も入ってよろしいですか!?」
「どうぞ」
セレナが回復の湯に移動する水音が聞こえた。
数秒後。
「ああぁぁ……魂が浄化されていく……もうここから出たくない……一生ここで暮らしたい……」
「もう暮らしてるだろ」
フィオナはいつの間にか三番目の魔力の湯に入っていたらしい。仕切りの向こうから、珍しく小さな声が漏れてきた。
「……悪くない」
フィオナにとっての「悪くない」は、最上級の褒め言葉だった。
静寂。湯気が夕焼けに染まっている。
虫の声が遠くから聞こえる。風がそよぐたびに、湯気が揺れた。
「……レン様」
「ん?」
「こんなに幸せでいいのでしょうか」
セレナの声は静かだった。
「宮廷にいた頃は、毎日が緊張の連続でした。料理に毒が盛られていないか鑑定し、派閥のために点数を操作しろと脅され……。お風呂に入る時でさえ、暗殺を警戒して武装した侍女が見張っていました」
「……そんな生活だったのか」
「はい。だから……こうして、何も心配せず、安心してお湯に浸かれることが。温かいお湯に包まれて、美味しいご飯を食べて、穏やかな空を眺められることが。……信じられないくらい、幸せなんです」
「いいに決まってるだろ。飯を食って、風呂に入って、ぐっすり眠る。それが人生の基本だ」
「……そうですね」
温かいお湯の中で、セレナは静かに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
湯上がり。
東屋で四人は冷たい魔力メロンジュースを飲んだ。
夕日が荒野を赤く染め、砦のミスリルの壁が朱色に輝いている。空のグラデーションが刻一刻と変わり、紫から藍へと移っていく。
セレナは頬を上気させ、しっとりとした銀髪を風に揺らしながら、ジュースを味わっていた。
「85点」
「ジュースも採点するのか……」
「癖です。すみません」
「別に謝らなくていい。……85点は高いのか?」
「ジュースで85点は異常です。果汁の甘みと清涼感のバランスが完璧で、冷たさの中に微かなメロンの芳醇さが残る……」
「ジュースの解説はいいから」
フィオナが湯上がりの肌で涼しげにジュースを飲んでいた。いつものクールな表情に、ほんの少しだけ柔らかさが加わっている。
ルナが人化形態に戻り、セレナの隣に座った。
湯上がりのルナは、ふわふわの白い髪がさらにふわふわになっていて、まるで綿菓子のようだった。頬がほんのりピンク色で、狼耳がぺたんと寝ている。
「セレナ、セレナ」
「なんですか、ルナちゃん?」
「わたし、セレナすき」
セレナの頬がさらに赤くなった。
「わ、私もルナちゃんが好きですよ」
「じゃあ、ごはん、いっしょにたべよ」
「……はい。いっしょに食べましょう」
レンは三人を眺めながら、メロンジュースを飲み干した。
砦の住人が増えた。
食卓が広くなった。
風呂が良くなった。
追放されたあの日は、こんな未来が来るなんて想像もしなかった。
冷たい荒野でたった一人、枯れ草を香草に変えていたあの夜からは。
――悪くない暮らしだ。




