第10話:味覚鑑定士、120点を叩き出す
翌朝。
セレナが目を覚ましたのは、パンの焼ける匂いだった。
甘い。小麦の香ばしさと酵母の発酵した柔らかな甘み。それが枕元まで漂ってきて、鼻先をくすぐった。夢の中でエルフの森のパン職人のことを思い出しかけたが、この匂いはそれより遙かに深く、温かい。
「……ここは」
起き上がると、見慣れない天井が目に入った。木造の梁にミスリルの金具。清潔な毛布。暖炉の微かな余熱。
昨夜のことを思い出した。
奴隷商人に追われ、白い狼に助けられ、見知らぬ料理人にパン粥を食べさせてもらった。あの温かいパン粥の味が、まだ舌に残っている気がする。
「おはよう。起きたか」
食堂に降りると、レンがキッチンからフライパンを持って出てきた。エプロン姿。手際よく朝食を並べている。
テーブルの上には、朝食が三人分。
焼きたての黄金のパン。半熟の目玉焼き。精霊トマトのスライスとレタスのサラダ。温かいコーンスープ。そして、薄切りのベーコンをカリカリに焼いたもの。
ルナは人化形態で椅子に座り、もうパンを齧っていた。白い髪とふわふわの狼耳。蒼い瞳は寝ぼけ眼だが、パンを咀嚼する口は忙しく動いている。
「おはよー、セレナ。パンおいしいよ」
「お、おはようございます……」
セレナは恐る恐る椅子に座った。
目の前に並ぶ料理を見つめる。碧色の瞳に、戸惑いと期待が混じっている。
「遠慮せず食べてくれ。朝飯は毎朝こんな感じだ」
「あ、あの……毎朝、これを?」
「ああ。ルナがよく食うから、多めに作ってる」
「じゅうにこめ!」
「ルナ、お前はもうパン十二個食ったのか」
「じゅうさんこめ!」
「増やすな」
セレナは少し笑った。昨夜の恐怖と緊張が緩んだ瞬間だった。
パンをちぎる。割った断面から白い湯気がふわっと立ち上った。外はカリッ、中はふわふわ。口に入れた瞬間、小麦の甘みが舌の上で弾けた。
「……っ!」
セレナの碧色の瞳が見開かれた。
これは……すごい。
宮廷のパン職人が焼いた最高級のパンでさえ、ここまでの香りと食感は出せなかった。小麦そのものの品質が違う。これが、昨夜の味覚解析で見た「黄金の小麦」の実力か。
「あの……レン様」
「レンでいい。様はやめてくれ」
「では、レン様……」
「聞いてないな」
「お願いがあります。……あなたのフルコースを食べて、正式に味覚鑑定をさせていただけませんか」
「フルコースを? 鑑定のために?」
「はい。昨夜のパン粥は92点でした。これは歴史的な数値です。でも、パン粥は即興でお作りになったもの。もし本気で作ったフルコースなら……どんな数値が出るのか。三百年間味覚鑑定をしてきた私の勘が、これはとんでもないことになると告げています」
セレナの碧色の瞳は真剣だった。味覚鑑定士としての矜持が、そこにあった。
「……面白いな。いいぜ、作ろう」
◇ ◇ ◇
レンは本気で取り組んだ。
パン粥は確かに即興だった。残り物で作った、急場しのぎの一品。
本気で作ったらどうなるか。自分でも試してみたかった。
メニューは五品のフルコースを組んだ。
一品目、前菜。
精霊トマトのカプレーゼ。
精霊トマトを薄くスライスし、ルナの菜園で育てたバジルと、コカトリスのミルクから作ったフレッシュチーズを交互に重ねる。仕上げにオリーブオイルと岩塩をひとふり。
深紅のトマトと白いチーズ、緑のバジルが皿の上で三色の旗を描く。シンプルだからこそ素材の質がそのまま出る。精霊トマトのバフ効果が、前菜の段階から食べる者の体に染み込んでいく。
二品目、スープ。
コカトリスのコンソメ。
コカトリスの骨を六時間煮出し、灰汁を丁寧に十回以上引いた。透明な黄金色のスープは、スプーンですくうと光を通すほど澄んでいる。一口含めば、凝縮された鶏の旨味が口腔全体に広がり、舌の奥から喉へと温かさが流れ落ちていく。
三品目、魚料理。
地下ダンジョンの洞窟湖で獲れたクリスタルフィッシュのムニエル。
透明な白身の魚をバターで黄金色に焼き上げ、レモンの果汁を絞る。外はカリッ、中はしっとり。バターの芳醇な香りとレモンの酸味が魚の甘みを引き立てる。
四品目、肉料理。
コカトリスのモモ肉ステーキ。
低温でじっくり火を通した後、高温で表面を焼き固める。表面は飴色のカリカリ、中はロゼ色のジューシーな断面。ナイフを入れた瞬間、透明な肉汁がじわりと皿に広がった。赤ワインと深淵キノコで作ったソースを添える。
五品目、デザート。
魔力メロンのパンナコッタ。
コカトリスのミルクと天然蜂蜜で作った滑らかなパンナコッタの上に、薄くスライスした魔力メロンを花びらのように並べた。メロンの翡翠色とパンナコッタの白が、涼しげな夏の花を思わせる。
フルコースが食堂のテーブルに並んだ。
五皿の料理が、それぞれ異なる光と色と香りを放っている。
◇ ◇ ◇
セレナが椅子に座った。
碧色の瞳に、味覚鑑定の光が灯る。
「では……いただきます」
一品目、カプレーゼ。
フォークで一切れ口に運んだ瞬間。
「……97点」
声が震えている。
「トマトの甘みとチーズのコクの相性が完璧です。バジルの清涼感が全体を引き締めている。素材の質だけで97点……前菜でこの数値は、宮廷時代を含めて初めてです」
二品目、コンソメ。
「……103点」
セレナのスプーンが止まった。碧色の瞳に浮かぶ数値を、三度確認した。
「100点を超えました。透明度、旨味の凝縮度、余韻の長さ。すべてが規格外です。このスープは……芸術です」
三品目、ムニエル。
「108点」
四品目、ステーキ。
「……115点」
セレナの手が震え始めていた。味覚鑑定の数値が、品を重ねるごとに上がっていく。あり得ないことだ。通常、フルコースでは前半の料理で味覚が慣れ、後半は評価が下がる傾向がある。それなのに逆に上がっている。
レンのフルコースは、品を追うごとに味の層が深くなるように設計されていた。前菜の軽さから、スープの旨味、魚の繊細さ、肉の力強さ。一皿一皿が前の皿の味を踏まえ、次の一皿への布石になっている。コース全体が一つの「作品」なのだ。
五品目、パンナコッタ。
セレナが最後の一口を飲み込んだ。
沈黙。
長い、長い沈黙。
「…………120点」
その声は、もはや鑑定士の声ではなかった。ただの少女が、信じられないものを前にした時の声だった。
「デザートで120点。五品の平均点は108.6点。フルコースの平均が100点を超えた記録は……存在しません。これは……人類の料理史に残る数値です」
セレナの碧色の瞳から、涙が溢れ出した。
昨夜のような恐怖の涙ではない。純粋な感動の涙だった。
「あなたは……あなたは一体、何なんですか。Eランクの料理人? 追放された飯炊き係? 嘘です。嘘に決まっています。この料理を作れる人間が、追放されるわけがない」
「追放されたのは事実だ。Eランクだったのも事実だ」
「では……なぜ」
「俺のスキルが覚醒したのは、追放された後だ。つまり……あいつらが追い出してくれたおかげで、今の俺がいる」
「……皮肉、ですね」
「ああ。かなりな」
レンは笑った。
「セレナ。お前がいてくれると助かる。俺の料理にはフィードバックが必要だ。美味いか不味いかだけじゃなく、数字で教えてくれる相棒がいた方がいい」
「……相棒」
セレナの頬がほんのりと赤くなった。目元に残った涙が、暖炉の光できらりと光っている。
「ここにいてもいいですか」
「最初からそのつもりだ」
ルナが人化形態でセレナに飛びついた。
「セレナ、ここにいる!? いっしょ!? やったぁ!」
「は、はい……よろしくお願いします、ルナちゃん」
「セレナのおっきいみみ、すき!」
「えっ、耳……!?」
とがった長い耳を両手で隠すセレナに、ルナが無邪気に笑いかけている。
レンはフライパンを洗いながら、窓の外を見た。精霊の菜園が朝日を受けて輝いている。
食卓の席が、また一つ埋まった。
――まだまだ、広くなりそうだ。




