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トラウマは丁寧に保管されています  作者: 続けて 次郎


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最終章:それでも朝は、ちゃんと来る

退院の日は、拍子抜けするほど普通だった。


特別な空も、

祝福の音楽もなく、

ただ、朝の光がカーテンの隙間から入ってくる。


灯は、それを見て思う。


——ああ、今日も続いてる。


それだけで、十分だった。


凪は、病院の玄関で待っていた。

少し早く来すぎて、ベンチに座っている。


昔なら、

「ちゃんとしてなきゃ」と背筋を伸ばしていた場所だ。

今は、少し猫背でもいいと思える。


灯が出てくる。


白い建物の影から、

一歩、外の世界に足を出す。


その瞬間、

灯の胸が、わずかに上下する。


凪は、何も言わない。

声をかけない。


代わりに、

同じタイミングで、息を吸う。


灯はそれに気づき、

同じように、息を吐く。


それだけで、

世界は、ちゃんと繋がる。


帰り道、

二人は並んで歩く。


コンビニの前を通り、

横断歩道を渡り、

信号が赤で止まる。


どれも、

物語にならないほどの日常だ。


けれど灯は、

足元のアスファルトに、

微細な安心を感じていた。


——落ちない。

——ここには、床がある。


信号が青になる。


凪が、ぽつりと言う。


「……そういえばさ」


灯は、横を見る。


「この前、医者に聞かれたんだ」


「なにを?」


「“その出来事は、今のあなたにとって何ですか”って」


灯は、少しだけ歩幅を緩める。


「……なんて答えたの?」


凪は、少し考える。


答えを探すというより、

言葉が、ちゃんと今の自分に合っているか、

確かめる時間だった。


「過去です、って言った」


灯の胸が、静かに鳴る。


「終わった、って意味じゃない」


凪は続ける。


「ちゃんと、後ろにあるって意味で」


灯は、微笑む。


それは、

傷が消えた人の笑顔ではない。


傷を、置き場所に戻せた人の笑顔だ。


「……私もね」


灯は言う。


「最近、夢を見なくなった」


「影のやつ?」


「うん」


少し間を置いて、続ける。


「たまに思い出すけど……

 もう、前には立ってない」


凪は、頷く。


「並んでる?」


灯は、即答する。


「うん」


信号を渡り切る。


車の音。

人の話し声。

風に揺れる木。


どれも、

二人を試さない。


ただ、そこにある。


家に着くと、

玄関の鍵を開ける音がする。


金属が触れる音。

以前なら、

胸が一瞬、強張った音。


今は、

ただの生活音だ。


灯は、靴を脱ぎながら言う。


「ねえ、凪」


「ん?」


「いつかさ」


灯は、少しだけ照れたように続ける。


「あの夜の話、

 “昔のこと”として、

 誰かに話せる日、来るかな」


凪は、少し考える。


そして、言う。


「来なくてもいいし、

 来てもいい」


灯は、その答えが好きだと思う。


「でも」


凪は、灯を見る。


「俺たちが、

 そう呼べるなら」


——過去のことだ、と。


「それで、十分だと思う」


灯は、ゆっくり頷く。


台所から、

湯を沸かす音がする。


カップに注がれる水。

立ちのぼる湯気。


それは、

割れる音とは、まったく違う。


灯は、その湯気を見ながら思う。


——全部、元には戻らない。

——でも、続いてる。


それでいい。

それがいい。


凪は、カップを差し出す。


「熱いから」


「ありがとう」


二人は、同じテーブルに座る。


向かい合わない。

隣でもない。


ちょうど、

同じ景色が見える位置。


過去は、消えない。

悲劇も、なかったことにはならない。


けれど、

それはもう、

二人を縛る鎖ではない。


歩くための、

重心になった。


窓の外で、

夕方の光が、街を染める。


フェンスの影が、地面に落ちる。


影は、落ちる。

けれど、飛び降りない。


影はただ、

光の向きを教えるだけだ。


灯は、カップを両手で包みながら言う。


「……生きていこうか」


凪は、笑う。


大げさでも、

劇的でもない笑顔で。


「うん」


それだけで、

物語は終わる。


そして——

二人の生活は、

何事もない顔で、

静かに、続いていく。

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