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トラウマは丁寧に保管されています  作者: 続けて 次郎


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第三十六章:最後まで語られた夜は、静かに席を譲る

語る、という行為は、

思い出すことよりも、ずっと体力を使う。


それを二人は、同時に知った。


面会室の椅子は硬く、

テーブルの縁は少し欠けていて、

蛍光灯の光は、海の底みたいに均一だった。


ここは、劇的な告白が似合わない場所だ。

だからこそ、

最後まで語るには、ちょうどよかった。


灯が、息を整える。


それは深呼吸ではない。

水面に顔を出す前の、

肺に空気の居場所を作るような呼吸だった。


「……割れたあと」


灯は言う。


「私、転んだんじゃない」


凪の背中が、ほんのわずかに強張る。


灯は続ける。


「後ろに、引っ張られた感覚があった」


それは誰かの手ではない。

重力でもない。

もっと曖昧で、もっと確実なもの。


——場の終わり。


「立っていられなくなった、って感じ」


灯の記憶は、もう映像ではなかった。

言葉の温度として、戻ってきていた。


「前に出たあと、

 あの人が……母が、後ろに下がって」


一瞬の、空白。


「そこに、床がなかった」


凪は、目を閉じる。


そして、ゆっくりと開く。


凪の中でも、最後の欠片が、音を立てずに嵌まる。


——踏み外し。

——引き返せない角度。

——支える腕が、間に合わなかった理由。


「……俺」


凪の声は、低く、落ち着いている。


「倒れる音、聞いた」


灯が、頷く。


「うん」


「でも、あれ……」


凪は、言葉を探さない。


「……家具の音じゃなかった」


灯の唇が、わずかに震える。


「身体の中に、残る音だった」


その一言で、

夜は、最後まで語られた。


もう、隠す場所はない。

もう、取りこぼした記憶もない。


沈黙が落ちる。


けれどそれは、

過去が重くのしかかる沈黙ではなかった。


語り終えた物語が、

本棚に戻されるときの、静けさだった。


灯は、しばらく黙ってから言う。


「……私ね」


凪を見る。


「生き残った自分のこと、

 ずっと、未完成だと思ってた」


凪は、何も言わない。

それが、正しい距離だと分かっている。


「途中で止まった人間みたいで。

 続きが、誰かの分を奪ってる気がして」


灯の胸に、手が当てられる。


「でも、今は……」


言葉が、少しだけ柔らぐ。


「続いてる、って思える」


生き残った、ではない。

続いている。


それは、許しに近い言葉だった。


凪の中で、

ずっと遠くに置いてきた未来が、

ようやく、こちらを向く。


「……俺さ」


凪は、窓の外を見る。


フェンスの向こうに、空がある。

切り取られていない、空だ。


「これからの話、してもいい?」


灯は、微笑む。


今度は、迷いのない笑顔だ。


「うん」


「完璧じゃなくていい」


凪は言う。


「思い出す日も、

 思い出さない日もあっていい」


灯は、頷く。


「一緒なら」


その言葉は、約束ではない。

条件でもない。


現在形だった。


二人は、同時に立ち上がる。


過去は、そこにある。

消えてはいない。


でももう、

進路を塞ぐ壁ではなく、

背中を支える土台になっていた。


面会室のドアが、静かに開く。


廊下の先に、

これからの時間が、何事もない顔で待っている。


凪と灯は、並んで歩き出す。


同じ速さで。

同じ呼吸で。


過去を置き去りにするのではない。

過去を、隣に連れて。

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