第三十五章:同じ一秒は、二人分の重さを持つ
それは、同時だった。
合図も、約束もなく、
まるで同じ頁を、別々の本でめくってしまったみたいに。
灯は、面会室の時計を見ていた。
秒針が、ひとつ、進む。
そのとき、胸の奥で
「音にならなかった音」が、かすかに鳴る。
——来る。
そう思った瞬間、
凪もまた、息を止めていた。
それは思い出す、というより
時間が、勝手に戻ってきた感覚だった。
ほんの一秒。
割れる直前。
身体が動くよりも先に、
世界の傾きだけが、確定した瞬間。
灯の中に、言葉が生まれる。
(あ、だめだ)
怒鳴り声でも、ガラスでもない。
“空気が壊れる”と分かる、
あの、温度の変化。
灯は、ようやく理解する。
自分は、考えていなかった。
勇気も、自己犠牲もなかった。
ただ——
癖のように、前に出た。
責める声が凪に向く前に。
凪が「状況」になる前に。
——これ以上、増やさないために。
同じ一秒を、凪も思い出す。
灯の背中が、視界に入った瞬間。
「庇われた」と理解するより早く、
置いていかれたという感覚が来た。
止められなかった、ではない。
止める、という役割を
最初から与えられていなかった。
凪の中で、
長いあいだ絡まっていた糸が、
少しだけ、ほどける。
(……俺は、選ばれてなかった)
守る側にも、
責められる側にも。
灯が、静かに口を開く。
「……私ね」
声は震えていない。
でも、深い水の底から
掬い上げたみたいな音だった。
「凪の前に出た理由、
やっと分かった」
凪は、黙って聞く。
聞く、というより
同じ場所に立つ。
「守りたかったんじゃない」
灯は、言葉を選ばない。
「ただ……
あの声が、これ以上、
増えるのが、嫌だった」
増える声。
増える夜。
増える、割れ目。
「凪が悪くなるのも、
私が悪くなるのも、
もう、嫌だった」
灯は、初めて
“あの夜の自分”を、
責めない言葉で包む。
凪の胸に、
重たい石が落ちる。
それは罪ではなく、
役目の重さだった。
凪は、ゆっくり言う。
「……俺さ」
視線を、逃がさない。
「止められなかった自分を、
ずっと、
現場に置き去りにしてた」
灯の指先が、わずかに動く。
「でも……
止められなかったんじゃなくて」
凪は、息を吸う。
「止める位置に、
立ってなかっただけなんだな」
その理解は、
免罪ではない。
けれど、
終わらない罰でもなかった。
二人のあいだで、
同じ一秒が、静かに沈む。
もう、鋭くない。
もう、割れない。
それは、
二人分の重さを持った、
確かな時間だった。
窓の外で、
夕方の光が、フェンスを越えてくる。
影は、落ちる。
けれど、落下しない。
影はただ、
地面に触れて、形を変える。
灯が、微笑む。
ほんの少し。
でも、確かに。
「……ねえ、凪」
「うん」
「私たちさ」
灯は、空気を確かめるように言う。
「全部、元には戻らないよね」
凪は、否定しない。
「戻らない」
そして、続ける。
「でも、
前より、
ちゃんと並べる気がする」
過去と。
自分と。
そして、互いと。
二人は、同時に立ち上がる。
まだ、完全ではない。
記憶も、心も、
継ぎ目だらけだ。
それでも——
その継ぎ目は、
もう、軋まない。




