第三十四章:思い出す前に、影は先に立ち上がる
その夜、灯は夢を見た。
夢の中には、音がなかった。
声も、割れる音も、悲鳴もない。
ただ、影だけがあった。
床に落ちる影。
壁に伸びる影。
そして――
誰かの前に、半歩だけ出る影。
それは人の形をしているのに、
顔がない。
重さだけがある。
灯は夢の中で、その影に気づく。
(……ああ)
言葉にならない理解が、胸に沈む。
(これ、私だ)
そう思った瞬間、
影は灯を振り返らず、
何も言わず、
ただ前に立つ。
庇う、というより、
習慣のように。
そこで、夢は終わる。
目を覚ますと、
心臓が速く打っていた。
怖さはない。
涙も出ない。
ただ、
胸の奥に、小さなひびが入った感覚だけが残る。
それは割れ目ではない。
継ぎ目が、きしんだ音に近かった。
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同じ頃、凪は診察室に座っていた。
白い机。
白い壁。
置かれた観葉植物だけが、
この空間に「生きているもの」を主張している。
医師は、急かさない。
沈黙は、ここでは異常ではない。
沈黙もまた、言葉の一部だった。
凪は、指先を見つめながら言う。
「……音が」
医師が、視線だけで続きを促す。
「音が、避けてる感じがするんです」
凪は、比喩を探す。
「ドアの向こうで鳴ってるみたいな……
聞こえるのに、触れられない音」
医師は、ゆっくり頷く。
「どんな音ですか」
凪の喉が、小さく鳴る。
「……割れる前の音、です」
その瞬間、
凪の中で、何かが一枚だけずれる。
蓋が外れたわけではない。
ただ、
密閉されていた容器の中で、
空気が一度、循環した。
「割れた音じゃない」
凪は、続ける。
「割れるって、分かる前の……
手首に、嫌な重さが来る前の音」
医師は、静かに言う。
「それは、思い出そうとしていますか」
凪は、少し考えてから答える。
「……一人では、思い出したくないです」
それは弱さではなかった。
むしろ、
初めての正確な自己認識だった。
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数日後。
面会室。
灯と凪は、また向かい合って座っている。
以前より、
沈黙が重くない。
沈黙が、
床に落ちている毛布みたいに、
二人を冷やさずに包んでいる。
灯が言う。
「……同じ夢、見た」
凪の眉が、わずかに動く。
「影が出てくる夢」
凪は、ゆっくり頷く。
「……音がないやつ?」
灯の目が、見開かれる。
同時に、
二人の背中を、同じ風が撫でる。
それは偶然ではない。
けれど、必然というほど、
劇的でもない。
ただ、
同じ場所に立っている者同士が、
同じ景色を見始めただけだ。
灯は、言葉を選びながら言う。
「私ね……
思い出したい、って思ってる」
凪は、すぐには答えない。
灯は続ける。
「でも、全部じゃなくていい。
一気じゃなくていい」
指先が、テーブルの縁をなぞる。
「……あの夜を、
“一人で抱えた時間”だけは、
思い出したい」
凪は、その言葉を聞いて、
胸の奥で何かがほどけるのを感じる。
それは罪悪感でも、
許しでもない。
役割の解除だった。
凪は言う。
「俺も……
灯が前に出た理由を、
“一人で考えなくていい”なら、
思い出せる気がする」
二人の間で、
過去が、ゆっくりと形を変える。
それは、
刃物ではなく、
砂時計のようだった。
落ちていくのは、
時間ではない。
重さだ。
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窓の外で、風がフェンスを鳴らす。
金属同士が、軽く触れる音。
以前なら、
二人のどちらかが、
無意識に息を止めていた音。
けれど今は――
灯が、息を吸う。
凪が、それに気づく。
凪が、息を吐く。
灯が、それに合わせる。
音は、割れない。
ただ、そこにある。
過去は、
まだ完全には戻っていない。
けれど、
過去に戻らなくても、
過去と並んで立てる場所が、
確かに生まれ始めていた。




