第三十章:固定された真実は、守るための形をしている
事故は、書類の上で完成する。
現場の空気や、
床に落ちた時間や、
子どもたちの沈黙は、
一行の文には収まらない。
「家庭内での不慮の事故」
その言葉が、
すべてを覆う。
凪は、病院の廊下に座っていた。
白い壁。
硬い椅子。
消毒液の匂い。
灯は、少し離れた場所にいる。
腕には、包帯。
顔色は、青白い。
けれど、
意識ははっきりしていた。
医師が、
穏やかな声で言う。
「転んだ拍子に、頭を打たれたようです」
“拍子に”。
その言葉が、
凪の中で、ひどく引っかかる。
拍子、というほど、
軽い出来事だっただろうか。
だが、
誰も異を唱えない。
唱えられない。
凪は、灯を見る。
灯は、
黙って頷いている。
その頷きは、
記憶の肯定ではない。
“それでいい”という同意だった。
灯の記憶は、
まだ霧の中にある。
割れた音。
血の色。
倒れた影。
それらは残っている。
けれど、
「なぜ、そうなったのか」という線が、
どうしても繋がらない。
繋げようとすると、
頭の奥が、ひりつく。
だから、
灯は言葉を選ばなかった。
選ばなかった、というより——
選べなかった。
凪の母は、
灯の前に立つ。
その姿は、
母というより、
「判断を下す大人」だった。
凪の母は、
灯を見て、
凪を見て、
そして、目を伏せる。
その一瞬で、
すべてが決まる。
——この子たちは、
——もう、これ以上は背負えない。
「……事故、だったんだよね」
その確認は、
灯に向けられていた。
灯は、
少しだけ、間を置く。
その間に、
記憶の中を探る。
怒鳴り声。
自分の動き。
割れたもの。
でも、
“殺意”も、
“故意”も、
そこにはない。
あるのは、
止めたかった、という感触だけ。
灯は、
小さく頷く。
「……うん」
その一音で、
真実は、固定される。
凪の母は、
その頷きを受け取って、
深く息を吐く。
それは、
安堵ではない。
恐怖から、
一歩、後退した人の息だ。
「……灯ちゃん」
凪の母は、
ゆっくり言う。
「しばらく、うちに来ない?」
その言葉は、
提案の形をしていた。
けれど、
選択肢ではなかった。
灯は、
凪を見る。
凪は、
何も言えない。
言えば、
何かが崩れる気がした。
灯は、
また頷く。
「……うん」
その瞬間、
灯の中で、
ひとつの決断が、
無意識に下される。
——全部、思い出さなくていい。
——思い出さないほうが、
——みんな、生きられる。
灯は、
自分の記憶に、
鍵をかける。
完全ではない。
壊れやすい鍵だ。
けれど、
今はそれで、
立っていられた。
凪もまた、
同じことをしていた。
思い出せない部分を、
“知らなかったこと”にして、
自分を保つ。
二人は、
同じ家に住み、
兄と妹になり、
同じ時間を過ごしながら——
別々の場所に、
同じ夜を閉じ込めていた。
だから、
今になって、
少しずつ思い出していく。
同じ速度で。
同じ痛みで。
思い出すたび、
相手の顔が浮かぶ。
——あのとき、
——この人は、
——どこに立っていたんだろう。
真実は、
一気に戻らない。
それは、
二人のどちらかが、
壊れてしまうからだ。
だから、
時間は選ばれる。
少しずつ。
確実に。
逃げ場のない順番で。
事故として固定された真実の裏で、
本当の記憶は、
まだ、息をしている。




