第十六章:白の底で呼びかわす名前
病院の午後は、いつも時計よりゆっくり進む。
秒針は歩いたあとで「やっぱりやめた」と言うように、ひとつ戻って見える。
凪は、その遅さが嫌いではなかった。
世界がゆっくりになると、人は本音をごまかせなくなる——そのことだけが怖かった。
この日、灯は談話室の隅のソファにいた。
薄いブランケットを膝にかけ、窓の外の雨を眺めている。
凪が近づくと、灯は気づいたように顔を上げた。
「ねえ凪、雨ってさ、降ってるときより“止む寸前”が一番静かだよね」
「どうして?」
「止むかもしれない、止まないかもしれない……“どっちつかず”の空って、人間の心みたいだから」
凪はその言葉にひどく耳をつかまれる感じがした。
灯の比喩はいつだって、凪の心の奥の箱を勝手に開けてしまう。
「今日、調子はどう?」
凪が問うと、灯は薄く笑った。
「調子って言葉、病院だと便利だけど残酷だよね。“良い・悪い”が自分の感情じゃなく、数値や表情で決められる」
凪は視線を落とした。
灯の話は重い。
でも、それを重いまま受け止めてほしいと言っているようには見えなかった。
むしろ——
わたしを理解してほしいなんて、おこがましいよという諦めの色が、灯の声の奥にいつもあった。
それが凪には、痛いほどわかった。
灯は続けた。
「でもね凪。君といるときだけ、調子の“揺れ”をごまかさなくていいんだ。わたしの言葉の温度で、君がすぐに気づくから」
「……気づくよ。灯の言葉はいつも透けて見える」
灯は肩をすくめた。
「透けてるのは、わたしじゃなくて“壁”のほうだよ」
凪は眉をひそめた。
「壁?」
「わたしが心に立ててきた壁。触れられたくないことは全部、そこにかけて隠してきた。でも凪は、いつも壁じゃなくて“隙間”を見るんだよね。 本当は破られたくないところばっかり」
その言葉に、凪の胸がひどく熱くなった。
灯がそう言うときの表情は、凪だけが知っているものだ。
少しうつむいて、でも視線は逃がさない。寂しさと勇気が入り混じった、灯の“芯”みたいな場所。
凪は息を吸う。
「灯、それ……寂しいって言ってるの?」
灯は首を振るでも、頷くでもなく、ただ静かに笑った。
「寂しいって言葉は便利だけど、わたしには大きすぎるかな。“穴が空いてるだけ”って言ったほうが近い」
「それを……埋めたいと思ったりはしない?」
灯は、凪の目を真正面から見た。
「埋めたらね、今度は“埋めてくれた人”が抜けたときにもっと大きく壊れるの」
その一言が、凪の胸に刃のように刺さった。
灯の声は淡々としているのに、その比喩は鋭すぎた。
凪は言った。
「でも……もし、埋めるんじゃなくてさ。隣に座って、穴の縁に一緒に足をぶら下げるだけなら……」
灯の指が、わずかに震えた。
それは“寂しさの震え”ではなく、“触れられたくない心に触れられたときの震え”だった。
灯はゆっくりと目を閉じた。
「……ねえ凪。どうしてそんなふうに言えるの?」
凪は、自分でもわからなかった。
ただ、言葉を探したわけでもなく、喉の奥から自然にこぼれた。
「灯が落ちそうなとき、呼ばれなくても走る自分がいるからだよ。理由なんか、あとからついてくる」
灯の肩がわずかに落ちた。
その仕草は、降参にも似ていた。
「……そんなこと言われたら、わたし……」
灯は言葉を切り、視線を横へそらした。
凪は近づこうとし、その瞬間——談話室のドアが静かに開いた。
白衣の女性が顔を出し、灯の名前を呼ぶ。
「灯さん、面談があります。準備、できますか?」
灯はゆっくりと立ち上がる。
白いブランケットがふわりと滑り落ち、ソファに積もった。
行ってほしくない、という言葉が喉のすぐ手前まで来たが、凪は押し込んだ。
灯は凪に振り返り、雨音のような声で言った。
「凪、また……白い部屋で会おうね」
灯の背中は、確かに歩き出したはずなのに、凪には“置いていかれる音”だけが鮮明に聞こえた。
ドアが閉まる音は、白い空間に長く尾を引く雷のように響いた。
凪は深く息を吐き、ソファに沈み込んだ。
胸の奥で、言葉にならない予感が膨らんでいた。
——何かが始まる。あるいは、何かがすでに終わり始めている。
灯が歩く白い廊下の先で、凪の知らない物語が、すでに静かに幕を開けているようだった。




